残 
三章 の満開の下

二、


死んだ後も皮膚感覚、正確に言えば冷たいという感覚を感じるのだろうかとヒナタは思った。
絶対に助からないはずの水面との距離であったにもかかわらず、叩きつけられると目を閉じた刹那、彼女はふわりと体が浮くような感覚を味わった。まるで断崖の下の水にぽっかりと穴があき、自分が底に落ち込んだような。
冷たかった。不思議に痛みもなく、ひどく穏やかな気持ちだった。
それは、彼女に自分の死を確信させるには、あまりに充分すぎた。


日向ヒナタは虚海を越えた。
それにともない、少しずつ黒髪から色素が流れ出て髪を透けるような薄紫に変えていった。


曖昧な視界の中にヒナタは自分に接近してくる黒い物体を見つける。
明らかな殺意を持って群れてくるそれらが、飢えきった妖魔であることなどヒナタは知りようもない。だが、少々むっとした。

―――もう、いいでしょう……?

向こうの国で、あれだけ戦ったというのに。
この死の海につかる安らぎすら、奪おうというのか。


いや、もう何を抵抗する必要がある。ここは死後の世界だ。
私は今までせめて運命に逆らいたかった。なら、今度は流されるだけ流されて、何処に辿り着くか見てやろうではないか。



……そう、日向ヒナタの心は確かにそう独白した。
だが、忍として培われた能力は、全く別の選択をしていた。的確に、敵の数を割り出す。五匹。二匹は正面に陣取り、残る三匹が背後からヒナタを取り囲もうとしている。
それを見た瞬間、今まで見たどんな生き物よりも大きい怪物はただの獲物に変じた。

最期まで放さなかったらしいクナイを引き抜き、ヒナタは初めて虚海の水を自分の足で蹴った。
迷わず二匹の方に向かう。人も動物も、来て欲しくない方面に守りを固める。体をくねらせ、圧死させようとしてきた巨体を二匹同時にかわしながら、目とおぼしき場所に正確にクナイを叩き込む。どんな化け物でも、とりあえず目は痛いはずだ。

案の定、獲物はのけぞり包囲網は崩れた。
光が見えた。黒い水の中、手を大きく伸ばせば届く位置に。着物が水を吸い重くなった感触、背の傷から漏れる激痛、辺りに流れる赤黒い液体。それら全てが、ヒナタの生を伝えていたが、今の彼女にそれに構う気力はなかった。

ただ、がむしゃらに手を伸ばす。
腹にざらついた砂が触れ、手が切れ、爪の中に砂が入るのも構わず這い上がる。


「……っ!」


陸だと思われるものに上がった瞬間、全身を激痛が再び襲う。
助かったのか……。虚脱感と失ったと思っていた安堵が心に流れ込む。ぺったりと顔に張り付いた髪から水を滴らせながら、ヒナタは血だらけの体に力を吹き込む。

生き残った以上、生きる努力をしなければ。一分一秒でも、生きなければ。


自分はそう誓った。
下忍になった日、ついに下忍になれなかった彼に誓った……!


よろよろとヒナタは歩き出す。無意識に印を結び、白眼が発動しているのにも気がつかず。
生き残れる唯一の道を選んで。




人々がぎょっとした様子で道を開けていく。


「この時期に虚海に入って……生き残っているなんて」
「海客か……?しかし、蝕は、起こっていない」



その言葉はヒナタには聞きなれない言葉だったが、もう耳は機能を失った状態にあった。
痛い、痛い、体中が痛い。こうして歩いている間にも、全身がバラバラになって、崩れ落ちるのではないかと危惧するほどの痛みだ。

(敵は……何処)

ここは何処だ?
実りのない畝があり、魯鈍に見える農民達しか見えない。だが、敵の忍の変装でないという証拠は何処にある。
もうクナイもない。何も考えることなく、ヒナタは構えようとしたが、瞬間、膝が砕けた。

「ぐっ……!」

立てない。これ以上動いたら、間違いなく失血死だ。
どんな気力を振り絞っても立てない。この間に、刃が……!

次の一撃は耐えられない―――


「倒れたぞ!」
「一体なんだ?この女の異様な緊迫感は……!」
「おい!州候がお見えになったぞ!」


それらはもう雑音にも聞こえなかった。
再び、先ほどの深淵にヒナタは突き落とされそうになり、不思議に足掻いた。もがいた。
嫌だ。さっきならよかったかもしれないが、今は嫌だ!理由もなく、嫌だ。

切実に誰かの助けが必要だった。だが、同じ里の額当てをつけているものなどいない。
そんな自分が誰を頼ればいいのか?


その時、倒れたヒナタの目前に、二つの足が現れた。
反射的に顔を上げようとしたが、首の筋肉が動かず、目を伏せているといきなり目が合った。相手が屈んだのだ。

真っ青な瞳、明るい黄色の髪。
それだけしか認知できなかったが、彼の口元だけは奇妙にはっきりと映っていた。



―――――



言葉など知らない。身も知らぬ彼を信用など出来ない。
だが、聞かれた事は分かった。




生きたいか?




無我夢中で一度だけ大きく首を縦に振る。青に吸い込まれるほど、彼の目を見つめる。
これほどまでに死にたくないと思ったことはなかった。