残 
二章 星屑的

三、



「悔しいか」

王座から降り注ぐ冷たい声はいつものことだ。
春野サクラは呆れる心を表情に出してしまわぬよう、静かに腰を下り控える。
これでは、自分がここに呼ばれた理由を聞けるまでは長そうだ。


今、サクラが立つ場は黎国楼花宮内殿朝議の間だ。朝議の時間は百官で占められるここも、正午を少し回った時間では王の執務室となっており、国王及び宰輔、右筆のみが常時その場にいることになっている。
サクラ他諸官は各々外殿の勤務先へと出仕する。朝議の時間を除けば、内殿は王の許可なしには立ち入る事が出来ず(もっともこれは国のカラーによるものらしい。雁国ではかなり頻繁に官が出入りしているとか)王からの召喚があった時のみ、足を踏み入れるのが叶うのである。
右筆も下げられ、国王、宰輔しかいない間は官としての召喚だとは語らない。


「いえ、主上。貴方様がこの黎国の王――霊王でいらっしゃいます。……どうしようもないほどに」


その成分のほとんどが侮蔑で構成された王の言葉に、麒麟も負けてはいない。

王の足元に跪きながらも、きっと顔を上げ、一瞬たりとも目を離すまいと王をねめつける。
この会話が現在新王のいない夏を除いた十一国で最悪の主上関係を表している。
麒麟は成獣となった時から、成長を止める。霊麟は十五、十六ほどの外見だ。サクラ自身、昇仙してから年を重ねていないが、自分よりニ三歳しか違わないその横顔は見ていて切ない顔に見える。


―――霊麟。
蓬山の女仙達をそのお転婆で困らせながらも、前王が身罷られた時からの暗黒時代に現れた黎国民の希望の光。サクラは覚えている。仲間の官達と昇山し、彼女に会った時の万感の思いを。

ああ、冬は終わる……春が来た、と。

民は王の出現を待ちわびていた。それに応えるように、彼女は最初の昇山者の中から王を選んだ。
サクラは目の前で新王が選ばれるのを見た一人だった。

新王はそれと期待された人物ではなかった。彼はサクラの同僚―――秋官であった。
それも、サクラの直属の部下。そして、彼女が惹かれた男。
うちはイタチは自身の意思で昇山した男ではなく、彼女の護衛として昇った者だった。


「お前は、いや麒麟というものは哀れだな。王を選ぶとは名ばかり。この世で一番運命に逆らえない者」
「ですが、それは天命です。民を飢えから救う為に王は貴い存在なのです。それを……何故」
「確かに天命はある。背けば罰も下る。それがこの世界の通りだ。だが、お前は俺を選んだ事を後悔しただろう?」
「……」
「俺が即位し安心したお前が、ほんの少しの自由を求めて立ち寄った村。お前が始めて得た友を悉く殺した俺に、お前は膝をつかなくてはならない。……哀れだな、霊麟」


即位式が終わり、朝廷を整える時期が到来した。イタチはこれまでの上司が大勢部下になった事も気にせず、傍若無人とも呼べる新政府を樹立。……こう霊麟には見えたのだろう。
確かにそれもある。だが、サクラは彼の世渡りの上手さにひたすら敬服した。
彼は新王の特徴でもある潔癖さを持ち合わせていなかった。彼は暗愚ではなかった。
民の飢えを満たし、腐敗した朝廷を粛清するためならばどんな汚れ仕事にも平気で手を染めた。
……それが、結果的には霊麟との埋めようの無い亀裂を生み出すことになった。


巖州。体内に巣食う最悪の害虫と、王が呼んだ州。
正攻法では倒せない相手に対する討伐。王は"故意"に霊麟を宮城から脱走させた。巧みに彼女のお転婆性を利用し甘い言葉をかけ、彼女を巖州に向かわせた。
全てが終わってから思えば、イタチはこの地点で彼女を巖州とのケーブル役にするつもりだったのだろう。霊麟は可愛くて優しい。そして、王座転覆を目論む者たちに一番必要な気概も備えていた。

髪を白布で包み、宮城を飛び出した彼女は今でも知らないだろう。道中で出会い、気まぐれを装って彼女を助けた旅の仲間が王から派遣された官吏及び将軍達であった事など。
サクラもまたその一人だった。秋官長大司馬と共に、彼女はイタチの策謀――密偵であった。

新王が直々に指揮をとる禁軍が巖州を壊滅させたのは、それから二ヵ月後の事だった。



―――夏に龍旗が上がった」



言いたい事を言い切ると王は宰輔への興味を失ったらしい。
手だけで退出を指示し、口調だけは幾分生真面目にサクラに話をふった。

夏。麒麟を喪失し、生き地獄を味わっている国。
それがサクラが持つ夏国の全ての情報を総合した言葉だ。前王、律王がいかに民を殺したとはいえ、必ず民は生き残る。だが、彼らを庇護する王室は一部の官吏の努力も空しく破綻の一途を辿り、麒麟は不在。

その国に、ようやく麒麟が……。


「珂麒は蓬莱に流されていたのだそうだ。連れ戻すのには、胡麒が協力したらしい」
「では……新王が登極なさる……!」
声が少し震えていた。今もなお、夏を守ろうとしている生命力に溢れた友人の顔をサクラは久しぶりに思い出して泣きそうになった。
次の言葉は言われなくても分かっていた。
これは密偵としての任務の名を借りた、イタチの優しさだった。


「秋官長大司馬に命じる。即刻夏に赴き、貴官がよかれと思う方法で、新王登極を見届けよ。期間は任務達成まで。それを為さず、黎国に戻る事はまかりならん」


行って来い。今まで、差し伸べたくても手を差し伸べられなかった友の行く末を見に。


「……生きて戻れ。それだけが、至上命令だ」


深く叩頭したサクラは愛されていると思った。この不器用な男に、全力で。


「謹んで拝命致します」




言いながら、今は遥か遠い蓬山にいる珂麒に思いを馳せた。
誰もが貴方の事をそう間違える。"誰よりも運命に逆らえない者"と。
もしくは、否と思いながらも、そう言わせるような儚さが貴方達にはあります。

でも。違うのですよ、未来の宰輔。


貴方は確かに天の意を受ける者。終生、王に付き従う事を義務付けられた者。
だが、孤独な王と真に心を通わす事の出来る――彼の孤独を理解できるただ一人のかけがえのない方。




貴方は、誰よりも、自分の運命に逆らえる方です。珂麒――――