二章 星屑的夢想 二、 いつのまにか、自然に目を閉じていた。 額から流れ込む、じんわりした優しいぬくもりの中でネジは父を思う。 ………ああ、もうずっと忘れていた。 俺はあの頃は"父以外に額を触られるのが不快だった"。 ……… ……………… ………………………… 漠然とした不安も、表面には出せなかった悲しみも、純粋さへの劣等感も、宗家という名の運命に対する憎悪すら消してしまう光があるのか。 その光の優しい奔流のようなものが自分の中に分け入り、"何か"を拭い去っていく。 "何か"―――俺は一体何を持っていたのだろう? おそらくは、周りの世界に対する強烈な劣等感と憧憬にも似た侮蔑。 欲しかったもの……いや、奪われたもの? それとも、最初から手に入れようともしなかった……何だろう? 奔流に伴うしめやかな香りは父の匂いであり、母の匂いでもあった。 ネジの意識はそれを覆っていた硬質の膜を剥がされ、懐かしい香りに包まれていく。 花の香り、修業後父と寝そべったの汗の匂い、母の作った蕎麦の匂い、古びた家の少しだけ湿った木の香り、小さなあの子の優しい心の香り―――― 優しく、柔らかな匂いは決してネジを傷つけない。 心から安心して身を任せているうちに、不意に小さな白い手が見えた。 風景――桜の森――と白い手だけが鮮やかに視界に飛び込んでくる。 それとは対照的にぼんやりとした手の持ち主のシルエットは、ちょうど自分と同じくらいの子供のものだ。 影が歩いてくる。 ネジは夢見心地でその手が差し伸べられるのを待つ。 「………ヒナタ」 え? 咄嗟にはそれが違う名前であるとわからなかった。 白い手の子供が呼んだのは"僕"の名ではなかった。 その名は、ここに来る前、苛立ちに任せて手を振り払ってしまったヒナタ様のものだった。 違う……… ………違う! 僕はヒナタ様ではない! あの人は生まれながらにして、自分とは違う幸せな人だ。 優しく、慈愛に溢れた温かい世界……どうしてこんな人がいるのだろうと思っていた……に住む、永久に相容れない人―――― 心は必死に叫び、あらん限りの力を持って反論しているにもかかわらず、身体は今だけの酷く優しい空気に拘泥している。この空気はネジの心が望んでいたものであり、同時に身体が取り戻したいと望んだ空気だったからだ。 自分の心を制御できない。 まるで全く別の心を持つ自分――何も迷う事はなく、卑屈さもない、そして悲しみも知らない優しい自分が本当の汚い自分の中に入ってきて、聖戦を挑んでいるかのような…… 意思を介入することなく、ネジの手はゆっくりと伸ばされ白い手に触れた。 ―――――! 思い、出した。 いや、覚えていたが、ただ忘れたかったのかもしれない。 目の前にいた白い手の持ち主は僕だった。ヒナタ、と緊張しながら呼びかけ後ろから付いて来る彼女に手を差し出したのは、僕だったのだ。 じゃあ、今まで浸っていた優しい心の持ち主はヒナタで、それに対抗するように薄汚れていたのが僕の心だったのか。なんだ、そうか。……よく考えてみれば、当たり前の事じゃないか。一度も優しさなんて持ったことはなかった、何でそれを夢想してしまったのだろう。 どうして彼女はこんなにも綺麗でいられるのか。 思ったところで、どうにもならないと知っているのに、考えてしまう。 もし、父上が言っていたように宗家に生まれていたら、僕もあんな人になれていたのだろうか……? 「蓬山公!」 鋭い声が夢を切り裂いた。 急に線がくっきりと浮き出た視界に安堵の溜息をつく女達が飛び込んでくる。 正確に言えば彼女達は"その光景"の背景に過ぎない。 否応なしに、目を通して脳に刻まれたのは鏡の中の顔だった。 ―――自分の顔。父の面影を宿した顔。白眼が大きく見開かれた顔。 いつもと変わらぬ、九年間付き合ってきた顔だ。白い……白い……… 「……呪印が、……ない……」 "何もない"額…………!! ネジは呆然とした顔を鏡から引き離す。一体どういうことか。初めて彼女達を見た時とは比べ物にならないほどの驚愕の中で、ネジは自分が驚くほど無防備な表情になっていることにも気がつかない。ただ、すがる目で女達に視線を向けていた。 「大事はございませんね?呪印を取るためとはいえ、恐れながら御額に触れ申し上げたことをどうか御赦し下さい」 「呪印を取ったのか……?」 「はい。これで、御身はこの世で最も崇高な神獣である麒麟の一員となられました。どうか、来るべき時に夏王をお選び下さい。それまでの間、私ども蓬山の女仙が御身にお仕え致します」 女仙達が一斉にひれ伏す。 それはネジにとって、生まれて初めて跪かれているという信じがたい光景だった。 白に塗りつぶされた心象風景に父の儚い笑顔と母の諦めたような沈痛な表情、悔しさに暮れて泣く自分、そして誰よりも綺麗なままの彼女の顔が浮かんでは消えていく。 考えなしに踵を返していた。 氾濫する感情がその昂ぶりのままバラバラに手足を動かしている。 「―――誰も来るな!」 叫んだ時、手足が千切れたかと思った。 手近な部屋に飛び込み、扉を閉め閉じこもった瞬間だった。 ネジの口から悲鳴にも近しいうめき声が漏れ、彼にも理由の見えない涙が頬を伝う。 こんなにも簡単に消えた呪印。 父を殺した、強かった父ですら逆らえなかった籠の呪い。 じゃあ、足掻いた自分は何を得た? 為す術もなく散っていった命と悲しみの連鎖は一体なんだった? 一体、白い頬に対しての憧れは何だった? 幸せそうだったヒナタ様。光の中を生きていたように見えた彼女。 彼の地と自分を隔てていた壁は決して越えられない壁ではなかった。 だが、俺は貴女のように優しくはなれない。一体何が慈愛の生き物だ。 この世界は俺とヒナタ様を取り違えている。 「……あ、………あぁ…っ、………うあぁ…………ああああっ!」 それはこの物語が始まってから、ネジが初めて爆発させた感情の波。 もう彼を止めるものは何もないことへの、―――悲憤の涙だった。 |