残 
終章 桶の追

一、


「シノ、悪ぃ、遅れた!」
「………お前が時間どおりに来たことがあるか」

受付のベンチに身体を沈めて瞑想していた油女シノは毎回調子よく謝るわりには改善の兆しも見られない同僚、犬塚キバの言を一言の元に切り捨てた。
彼の無表情で言われるとなかなか怖い物があるが、相手が慣れきっているので効果は薄い。
現にキバは勝手に自己完結してしまったらしく、受付に報告書を出していた。

「じゃ、行こうぜ」
悪びれもなく笑うキバに何を言っても無駄であるのは先刻承知であるので、シノは何も言わず受付の門をくぐった。
キバも後ろから黙ってついてくる。
…………やはり、互いに相手が元気でいると気まずい思いを抱えずにはいられない。



日向ヒナタの訃報を受け取ったのは、忘れもしない一年前の今日だ。
春雨の日だった。その日を境に、桜が散ってしまうまさにその日だった。

最初に訃報を聞いたのは非番であったキバで、その日の夕刻任務から戻ってきたシノが次だった。
同期のチョージやいの、下忍時代の担当上忍であった紅、アスマなど知り合いという知り合いはほとんど里におらず、誰よりヒナタを可愛がっていた紅などは訃報から一月後に里に戻ってきたという始末。その中で、時差なくそれを聞けたのは幸か不幸か、二人には分からなかった。

どういう偶然か、三人同時に中忍に昇格した旧八班。
当然のようにそれぞれが別の小部隊に配属され、個別に任務をこなす事となった。
しかし、スリーマンセルで行動することが少なくなったとはいえ、下忍の間に培われていた絆は色褪せる事を知らず、暇があれば顔を合わせるようにしていた。
そこには、日向宗家という重荷を背負うヒナタを支えていこうというキバとシノの思惑―――ささやかな恋心にも等しい物―――があったのだが、ヒナタだけは知る由もなかった。

会えば修行をしてから食事、それが彼らのパターンであり、それに紅が加わった日などは酒盛りに発展するのもいつもの事だった。
会うたびに強くなっていく仲間達。
対抗意識と同時に、途方もない安堵もあった。一つ相手の新しい術を見るたび、きっと次も会えると思う。そして一つ相手に自分の新しい術を見せて、必ず帰ることを無言のうちに約束しあうのだ。
幸せだった。厳しい任務の中、同期に誰一人として死者が出ていなかったのもその一因だった。
一週間前に会った時も、思い出せないほど他愛のない話をしただけ。
それが、八班の最後のひと時だったと誰も知らなかった。


小隊の全滅。出来れば聞きたくないが、時々は耳にする言葉だ。
まさかそれが仲間の身に降りかかろうとは思わなかっただけで。

ヒナタが所属していた小隊は任務内容の誤差が仇になり全滅した。
全滅したと思われる地点で隊長一人の死体が発見され、近隣北南のニ方向で隊員の死体も上がった。相手も上忍と中忍であり手加減しなかったのであろう。
医療班が無残さに眉を顰めるほどの死体だったという。

死体が上がらなかったのは崖の手前で血痕が途切れたヒナタだけであった。
即刻動いたキバとシノの小部隊が懸命に探したが、崖下は急流で到底叶うものでもなかった。

遺体すらない寂しい葬式。
日向宗家では異例の死に方に少しばかり騒然とした雰囲気も漂った事は漂ったが、それもすぐに忘れられ、ひっそりとヒナタの死は消えていった。
……納得も出来ない、宙ぶらりんな友を置き去りにして。



一体いつまで彼女の事を覚えていられるのだろう、と二人は歩きながら思う。
上忍ほどではないものの、ハードなスケジュールを駆使し、どちらか一方でも月命日には墓参りに行く。それを初めて一年が経ち、それでもヒナタは帰らない。

死んだ者は帰らないのだ、とそれは身に染みてよくわかっている。
ヒナタの遺体を確認できたら、そのときは嘆き悲しんだとしても、納得する事が出来ただろう。
彼女は任務で殉職した。形だけでも、忍として最高の生き方だと教えられていたから。

だが、ぽっかり闇に落ち込んだかのように消えたヒナタ。
死んだという確証もなく、生きているという保障もない、ただいなくなってしまった彼女。
一体いつまで、このような曖昧な感情を抱えて生きていけばよいのだろう。


「キバ。山中花に立っている奴………」
視線をそらすことなく、言葉をかけたシノの目線の先には、ヒナタにぎくりとするほど似た人物がいる。
「ああ。あの、クソガキ、口達者でまいるぜ」
「それはお前が単純すぎるからだ。あんな子供にあしらわれて恥ずかしいとは思わんのか?」
「うるせえ!」

キバはもともとの性格が災いしているのかよくわからないが、相手を日向の跡目としては扱えず、結果として良いいびられ役となってしまっている。
そうこう言い争っているうちに、噂の相手も気がついたらしい。

「キバ、シノ。姉さんの所にか?」

日向ハナビは片手に菊を入れた花桶を下げながら二人に向かって手を上げた。


◇ ◆ ◇


薫風が頬を薙ぎ、彼の涼やかな金髪が薄暗い場所を照らす。
季節はそろそろ初夏に入ろうかという所で、桜を見逃したなと彼は思う。
夏には桜が咲かないそんな当たり前の事も忘れかけていた自分に苦笑し腕に抱えた花をちらと見た。一年中惜しげもなくあらゆる花が咲く永遠の季節の庭より、青葉だけが寂しく茂るこの場所の方がどうしてか情緒があるように思える。

最初の行き場所とは異なり、この辺りは地の利に乏しい。
彼はきょろきょろと首を動かしながら、砂利道を必要以上にゆっくりと進む。
気にした事もなかった若葉のささやかな揺れ、弔いの静かな香り、黄や白のひっそりとした花の追想。
こんなにいいものだったのかと気がつくことが出来て嬉しかった。

もうこの道を、日向の人間として歩くことはないのだから。
一族の――父の――魂が眠る、ここを命の続く限り覚えていたかった。


(………墓まで、あの人らしいな)


そこを目指していなかったら、おそらく通り過ぎてしまうだろう。その墓は趣向を凝らした日向宗家の墓地の中では、文句なく一番地味と言えるものだ。
墓に眠るとされている彼女をよく表したように、控えめながらも穏やかな弔いの場だった。
それでいて、小綺麗に磨かれている所を見ると、彼女を悼む人がまだいるのだ。
羨ましいと思った。同時に、いつまでも彼女を覚えていてくれと、その誰かに祈った。


(すまない………)


彼女が生きていると知っているのに、このような手段しか取れないで。
だが、俺は、知ることのほうが残酷だと思う。


ゆっくりと墓に屈みこみ、彼は瞳を閉じる。
ほんの数瞬。だが、彼にとっては人生を振り返る長い長い間。
瞼の奥の闇に昔の自分の後姿が見える。背後の人物に意地悪な言葉をかけ、彼女が持たない額当てをつけていることを誇っていた昔の自分。
サバイバル演習を通過したものの、下忍にはなれなかった思い出だがそれも愛しい。
積極的に近づいてきて、その時は鬱陶しいと思っていた二人の仲間と担当上忍。
思いに応えられなくて悪かったなと思う。元気だろうか。


(リー、テンテン、ガイ………死ぬなよ)


その時、木立の向こうから人の話し声が聞こえてくる。
変わっていたが、懐かしい声。特に友好的に話したこともないのに、途方もなく駆け寄りたくなった。
去る時になって初めて気がつくというのは本当だな、と彼は薄笑いを浮かべる。


最後に丁寧にそれを供え、ネジは踵を返す。
背筋を伸ばした金髪のシルエットは影の中に溶け込み、浮かび上がる事はなかった。