七章 守りたかった人 四、 早朝の冷気にはどこか春の香りが漂っている。 春の到来を感じたのか、昨日の宴会騒ぎにもかかわらず起きだしていた昇山者達は、金髪を優雅になびかせながら歩く珂麒に出会うと慌てて道を開けた。 誰の案内もなくネジは歩みを進める。ただ行きたい方角に行けば、彼女が待っているとわかっていた。 ……間を置かず見つけた彼女の優しい気配。傷つける事しか出来ない、彼女と目が合った。 「ヒナタ様。お話があります」 これから主君になる人物の顔を見ながら、ネジは昔の桜並木を思った。 …………… ……… 桜の森の満開の下、ぺたぺたと小さな足音が響く。 先行く足は何気なく進行方向の小石などを弾きながら進み、後続する足は遅れぬようおどおどとついてくるのが精一杯のようだった。 しかし、先行する少年に余裕があるかといえばそうではない。 彼はちらちらと落ち着きなく後ろからついてくる少女を見ていた。 何か話そうと思う。実際初めて会った従妹に聞きたいこと、聞いて欲しい事など沢山あった。彼は儚げな少女が好きだった。 思考が氾濫し、何もいえない自分がもどかしく、同時にこの沈黙が心地よい。 でも、この時間はもうすぐ終わる。 今日は少女の三歳の誕生日。つまり、日向宗家の嫡子の誕生日を祝うため、彼も父に連れられやって来た。準備ができるまで少し待っていなさいといった父が言い、列から離れぽつんと一人で立っていた少女を誘って出た散歩の時間はもうすぐ終わってしまう。 そうすれば、きっと後ろの彼女と親しげに話しながら歩くことはないのだろうと子供心にわかっている。 吐きそうになりながら、毎回跪いている自分がそれを証明している。 しかし、この地点では彼はそれほど深刻に考えているわけではなかった。 宗家と分家に分かれてしまった父兄弟も、根底では仲良しのままだと彼は信じている。 それに、この頼りなさげな少女が分家として跪くくらいなら、自分が耐えた方がましじゃないか。 彼女とはきっと仲良くなれる。 絶えず自信なさ気に自分を目で追いながら付いて来る可愛い子は、きっと友達になってくれる。 少年は根が地上に突き出す狭間の小川を軽く飛び越え、勇気を振り絞って少女の名を呼ぶ。 「………ヒナタ」 小さく白い手をネジは差し出す。 桜吹雪が戸惑いをかき消し、触れた手はほんのり暖かい。ネジはその手を宝物を扱うように、少しだけ握る。 「行こう」 声は小さくとも、返された返事は確かに「うん」と言ってくれていた。 だから、だから、繋がれたこの手はいつまでも繋がれていると思っていたのだ。 ―――それは、日向ネジが分家として"籠の中の鳥"になった日。 年間行事において叩頭を義務付けられ、あの地獄の始まりの日。 そして、父、日向ヒザシが兄の影武者としてこの世から消えるたった二週間前。 俺が悪い。俺が変わらなければ、いつまでもあのままでいられたかもしれないのに。 でも俺は憎しみと劣等感を押さえられなかった。 …… … ごくりと喉が鳴った。そして、体は震えている。 何度願っても駄目だというのか。答えは出ていても、自問自答せずにはいられない。 (なりたい自分になれよ、ネジ。麒麟である前にお前は日向ネジって奴なんだからよ) 俺はその二択ならば、自分を曲げる事を望むのだろう。選びたい、民が哀れだ、……貴女が哀れだ、そう思いつづけるならば、別の者を王として探したかった。 跪くべき王は、今見えている人は貴女だけなのに。 シカマルの言葉は俺への免罪符だったのかもしれないと思う。天命を受けているのはたった一人ではない。きっと、彼女以外に俺が選んでもいい王は生きているのだ。 静かに目を閉じ、目の前に心配そうに立つヒナタに向き直る。今から彼女を傷つけなくてはならない事実、でもこれ以上は自分が耐えられない事実、それが胸を締め付けて苦しい。 今、ようやく心では対等な立場に立てた。 だが、昔からずっと望んでいた立場に立っても、俺は貴女を傷つける事しか出来ない。 言葉は群衆の中、それを伝えたいヒナタだけのために、滑らかに滑りでた。 「……俺は、向こうでは叶わなかった自分になりたいと思っていた。今では、あっさり消え去ってしまった呪印に阻まれ、卑屈になっていた自分に打ち勝ち、綺麗な貴女と正面から向き合える自分になりたかった。ずっと、純真な貴女が羨ましかった……。―――俺は昔も今も、世界が皮ってすら、貴女にとっては醜い俺のままです。ヒナタ様、貴女が変わろうと努力していた事は知っています。でも、俺は貴女がなりたい貴女になって欲しくなかった」 地を這いずってもいい。 泥水をすすってもいい。 血反吐を吐いてもいい。 俺が醜く生きるから、アナタを悩ませる汚い部分は、俺が全部始末するから、その分アナタはその純粋な牢に捕らわれたままでいて下さい。 アナタだけは、誰よりも綺麗に生きて下さい。 「―――俺だけがヒナタ様を守れる存在でありたかった。俺は、貴女を守れる俺になりたかった…」 だから、この思いに免じて。 俺を許して。 「―――お赦し下さい、主上」 一言でその場が凍った。 途中までは霧の中から聞こえるようだった声が、明瞭にあたりに溶け込んでいく。自分の声が群衆のざわめきを押さえる前に、ネジは静かな衝動性に従い、優美な仕草で腰を折った。 今まで、出来なかったのが嘘のようだった。 まるで誰かの優しい手が――それは遥か昔に失った父の手に酷似していた――頭を自然に垂れさせてくれるようだとネジはぼんやり思う。 もう後戻りは出来ない。運命を変えられる選択肢は捨ててしまった。 言え、言ってしまえ……!許して欲しい、でも百年でも二百年でも許してもらえなくてもいい。 ―――止まれない。 「天命をもって主上にお迎えする。これ以後、御前を離れず、勅命に背かず、忠誠を誓う事を誓約申し上げる」 |