残 
七章 りたかった

三、


昇山者達は寝静まることを知らないらしい。
珍しくも、女仙の小言を頂戴することなく、帰還することが出来たネジは普段は青黒い闇が漂うばかりである空間に紅く広がる明かりを見ていた。
ナルトはどうしているだろうか、と思いどうせ酔いつぶれているだろうと考え直す。

王を選ぶと決めた時から、ヒナタ様の顔は消えなくても、圧迫されるような強迫観念はなくなった。
………一度、彼女に会いに行かなければならない。
朝になり、彼女の顔を見たら、俺は間違いなく跪いてしまうだろう。語りかけられることのほうが少なかった本能がそう叫んでいる。
ヒナタ様は王位など望まない。……王位によって、彼女が巻き込まれる渦の中。その中においては、麒麟である俺が守る。だが、ヒナタ様は精神面で何を失うのだろう。

どういう経緯かは知らないが、ヒナタ様がナルト達と同行していたのは確かだ。それに禁軍将軍の地位。こちらの世界に来るにはほとんど唯一の方法で蝕だろう。海客か山客かどちらであろうとも、異邦人に代わりはなく、誰かの庇護なしには生きることは困難だろう。
間違いなくヒナタ様はナルトを王位につけたかったのだ。その為に護衛として昇山した。
―――俺が腰を折ったら、彼女は自分が奪ったように感じてしまう。


「……今更、何と言えば」


昔からいつもそうだ。ヒナタ様に劣等感を照らされるたびに、彼女を抉る言葉で遠ざけてしまう。
その時は確かに満足するのだ、歪みきっている俺は。………そんなことをしたいのではなかった。
ネジは頭に巻く白布を手に取る。会いに行く以上、目立つわけにはいかない。

―――白眼」

駄目でもともとの思いつきだった。
身体に流れるチャクラは感じられるのに、何度印を結んでも白眼が発動した事はなかった。
………だが、それがまるで嘘のように、白眼は発動した。それに驚く前に、透き通った視界の中に見慣れた物がちらりと映る。ほとんど反射的にネジは窓を開け、珊に置かれていた物を手に取った。


「俺の、………額当て」


一目で使い込まれていたとわかった。それでも、傷らしい傷はほとんどなく、ほつれも綺麗に繕われている所から大切に使われていたことが感じられる。
恐る恐る、木の葉のマークに手を這わせたのはあの日以来。銀色の光は月光にも似ていて、これが自分が生きていた証なのだと思う。ぽたりと零れた水に光沢が濡れ、曖昧な光を放っていく。
―――泣いていることにすら気がつかなかった。



「ヒナタ様。そこにいるのでしょう?」



とめどない静かな涙の中にも、落ち着いた声に変わりはなかった。
窓の下に蹲った彼女の影は白眼の視界の中に映っている。それを見たのは彼女の気配に気がついた後だったというだけで。
ヒナタの気配が震えたのがわかったが(当たり前だ、あれだけのことを言ったのだから)ネジは決心が鈍らないうちにと大きく息をする。考えていた言葉は無論忘れた。でも、………今宵が従兄妹として語り合う最後の時なのだから。


「悔しかったんですよ。………俺は、昔、貴女に約束をした。一族を滅ぼし、貴女を解放してやると」
額当てを抱きながらネジは窓際に座り込む。壁一つを挟んだ形になった。

「麒麟にはそれが出来ない。俺が約束一つ守れない身になったのに、貴女が帯剣し、強くなっているのが本当に悔しかった。…………苛立ち紛れに、あんなことを言ってしまった。……すみません」
未だ止む事を知らぬ涙は一体何を流していくのだろう。
「………いい、……いいの、ネジ、兄さん………」
背後から聞こえる嗚咽と自分。一体いつから変わってしまったのだろう。
唐突に彼女の薄紫の髪に指を絡めたい衝動に襲われ、それを振り払うようにネジは言葉を続ける。


「結局、俺がこの世界で他人に対して初めて感じた強い感情は貴女だった」


その意味がわからないはずはないのに、ヒナタは卑屈なことは何も言わない。静かに立ち上がる。
振り向きたい。泣き叫びたい。


―――ヒナタ様。聞いてもいいですか?」
「………はい」


俺 を 許 し て く れ ま す か   


「ナルトの願いと貴女の願いだったら、どちらを取りますか」
「ナルト君の願いを」

「……では、俺の願いと貴女の願いでは?」


毅然とした後姿から、簡単に答えが読み取れて、ネジはその言葉を聞く前に動いてしまった。"自覚ある"二度目の衝動はどうしても押さえられなかった。
立ち上がっていた彼女を背後から強く抱きしめる。



「……行くな。今、しばらくは…………」



大切な従妹だった、貴女を天命が続く限り、覚えていられるように。



早朝に、伺う。そう耳元で囁いたネジの指に白い手が触れる。
自分の手に触れる温かさと雫の冷たさを感じながら、彼女の薄紫の髪に水が流れるのをただただ見ていた。郷愁とも、懺悔とも、慈しみとも、様々なものに取れる感情が過去を知るただ一人の人に恐ろしく静かに浸透していった。