残 
二章 星屑的

一、




最初は夢を見ているのだと思った。自分に似合わず、明日からの任務に興奮して眠りが浅かったのだろう。今は何時だ……、集合時刻にはまだ間に合うかとネジは考える。
とにかく起きようと思い、布団に手をつき、体を起こそうとする。

(………?)

思わず手を離し、首を小さく傾げる。
自分の布団はこのような触り心地だっただろうか。
いや、間違いなく違う。今触れた物はさらさらして、冷たい感触だった。布団とは似ても似つかない。



桜。
死体。
墓。
自分。
手。
黒い。
白い。
振り払った。
呼ばれた。

ヒナタ様。



―――!」


散文的に、一見ばらばらな物が脳裏をよぎる。
それがほとんど瞬間的に一つの物語として紡がれ、ネジは勢いよく跳ね起きた。

白眼を使わず、目本来の能力だけで部屋と人を観察する。
寝ているのは見たこともない様式の寝台のような物で、自分を覗き込んでいる女達は人ではないような印象、着ている物も薄い布を重ねたような奇妙な服だ。
今保持している情報は土から伸びた手にここまで連れてこられた事。
ここは先ほどまでいた日向の墓地ではない事。
見ている女達はその視線から考えると自分に敵意を持っていない――いや、自分を心配している事。
……冷静に考えてそれしかない。


「……ここは何処で、貴様らが俺を連れてきた理由と貴様らにとっての俺の存在意義は何だ」


言葉を口に出すのにほとんど迷いも思考もなかった。
確かに自分は抵抗しなかった。声、理由のないこちら側への希求、理由のある逃避願望。
それらを総合してしまえば、ただなんとなくというのかもしれない。

だが、意識を取り戻してしまった以上、考えてしまうのが日向ネジという男だった。
ネジは誰の動作も見逃すまいと目を凝らす。


(……一体、何だ?)


女達の泣きそうな、それでいて心から安堵したような、俺などにすがるようなこの表情は。
一度も触れた事のない感情の集まりにネジはそれを表には出さずとも、戸惑う。


「珂麒………」


どこから現れたのか、あの黒い手を持つ女が口を開く。
寝台のすぐ横にひっそりと控えていた女の気配に気がつかなかったことが、にわかに信じられず、ネジはびくりと身体を震わせる。
気配のない理由を考えつく前に、正面に立っていた女が声を絞り出す。

「ご無事で………よくぞ、ご無事で。お帰りなさいませ、蓬山公」
「これで、夏は救われます……」

言っている事がさっぱりわからない。
目線だけで説明を促すと、女達もこのような状況に慣れているのか、すぐに一人が進み出てきた。
朽ちた色合いの茶色の目、床に着くほどの黒髪。それがネジの女に対する第一印象だった。
ネジは彼女がこの中で一番泣きそうな顔をしていると気がついていたが、敢えて質問はしない。

激情を押さえるかのように、押し殺した声で女は話す。
柔らかな歌――物語とも呼べる語り。
ネジは目を閉じてその語りを身体の中に取り込む。




ここまで来てしまったのだ、どうとでもなれという半ば自虐的な思いがあった。
だから、自分は本当ならこちらの世界で生まれるはずの者だと言われても、寂しくは感じなかった。

歪んだ波は俺を日向に運んだ。
なら……それは、運命としか呼べない。

本性は人ではなく、麒麟という神獣。
麒麟である自分は夏国の王を選ぶためだけの生き物。民意を測る慈愛の生き物。
王は麒麟の意思で選ばれるのではなく、天命により選ばれる。
麒麟は王と運命をともにする事を義務付けられる。
王の天命が尽きた時、麒麟は失道により命を蝕まれ倒れていく。

何処でも変わらない、俺には相応しい生き様だと思った。


女はネジが無反応なのを不安に思ったのか、一層声を柔らかくする。


「麒麟は王以外の何者にも屈せず、縛られる事のない孤高の生き物です。御身は夏王以外の者には跪くことは出来ません」


意味の分からない言葉を無理やり飲み込もうとして無意識に阻まれる。
明後日には抜けられない催しがあった。
そう、いつものように吐き気に耐えながら列に加わり、宗家が通り過ぎるまで地に頭を擦り付け―――


ほとんど反射的に叫んでいた。



――――俺はいつも跪いていた!!」



………そうだ、俺はそうやって生きてきた。
籠の中の鳥となり、飼い主に殺されぬよう、掟に従って生きてきた。
皆がそうやって生きた。父も母も。
昔は兄であり姉であり知己の友であった者達に腰を折り、宗家の繁栄の為だけに死んでいった。
……影の存在として、殺されていった。

「人違いじゃないか。俺は宗家の者達に腰を折り、卑屈に地べたに這いずっていた。それに、慈愛なんか欠片も持っちゃいない。俺の向こうでの役割は人殺しだった…。夢は一族を滅ぼす事だった。―――お前らの話に符合する所が何処にある?」

大声で笑いたい気分だった。
期待をすれば失う、その真理を失念した結果がこれだ。
逃げられるはずはなかったのだ。
鳥は籠から逃げることなど出来なかった。


女達の沈黙は長く、そして恐怖に満ちていた。彼女達の誰もが、呼吸を失い、整然と立ち並ぶ美しい石造と化したかのようだ。
彼女達の反応は至極当然の物だ。ネジの言葉は、彼女達にとっては天がひっくり返るほど――世界の理全てが崩れ去るほどの言葉だった。

王以外に跪く麒麟―――ありえない。
だが、目の前の愛らしい少年はどうしようもないほど麒麟なのだ。


それぞれが目配せを交わした後、説明をしていた女が幾分厳しい表情で進み出た。

「失礼ですが、お額の包帯をお外し下さい」

言葉遣いは先ほどと変わらず丁重だが、そこには硬質な殻に包まれた焦燥が見えた。
ネジは素直に包帯をとく。
この下にあるものを見れば、風習は分からずとも、合点が行くはずだと思ったからだ。


白い肌に、残酷なほどくっきりと刻まれた"あの"呪印。
幾多の命を吸いながら生き長らえてきた"籠"。
父の仇であり、夢を達成しなければネジの命も奪うかもしれないそれ。

女達の顔色が一変した。
恐怖は一気に怒りに塗り替えられ、誰の口から漏れたとも分からぬ呪詛にも近しい音が流れた。

ネジは目を見開く。
いつも宗家の意向を伺いながら生きてきた経験が反応し、反射的に跪き、詫びようとしたが、肩を掴まれ動けなくなった。
顔を上げてみても、何をされるわけでもないので、仕方なく会話に耳を傾ける。


「おお、なんということを……!麒麟の本性をこのようなくだらぬ呪で押さえつけるとは……」
「なんて恐れ多い……!」
「仕組みそのものは複雑な物ではないように見えます」
「このようなものを蓬山公の御体に残しておく事はままなりません」
「おいたわしいこと……!」


ネジは再び思考を廻らす。彼女達は一体何者だろう、と。
彼女達はこの呪印のことを知っているのだろうか。
過去、誰も逃れる事が出来なかった宿命―――日向宗家秘伝の呪印すらくだらないものと呼べる彼女達は、何を見ている者達なのか………?


(馬鹿馬鹿しい)


何も知らなかった時の俺が夢想した花の世界。
その世界で微笑んだ、籠を取り去ってくれた何者か。
彼女達は……いるはずもない神?それとも、全く触れた事のない救い?


―――ご無礼をお赦しください」


声によって抽象的な世界が霧散し、ネジが再び意識を現実に向けたとき、既に目の前には手が迫っていた。
女の手が金色に輝き、淡い光を放つ。
慎重な仕草で、その手がネジの額に触れる。
多少、眩い光に目を細めたが抵抗はしない。―――温かかった。