残 
七章 りたかった

一、


「おい、何か着る物を貸せ」

ネジが戎徽の親玉を使令に下し、助かったとナルトが座り込んだ時に降りかかった第一声だった。
「………へ?」
「馬鹿か貴様は。麒麟は日常的には人間の姿でいる。転変した後、元に戻ればどうなるかくらいわかるだろう。俺に何も着ずにいろと言うのか?」
(なんか、サスケにも通じる所があるってばよ……)
助けてもらった恩はもちろん忘れないが、どうやら珂麒は尊大なのが素のようだ。
これ以上固まっていても、いいことはなさそうなので、ナルトは荷物の中から官吏の正装を取り出し、投げてやった。今は、兵士としての服装だが、昇山の暁には麒麟に目通りを願う。そのときには、各々正装で望むのが常識とされていた。

「吉量と女はどうした?」
「あれは借り物だから、多分飼い主の所まで戻っていると思う………って!」
麒麟は血を厭う。気休めでしかないだろうが、持っていた布で顔にかかった返り血だけを拭っていたナルトが振り向くと、既にそこに麒麟はなく、同じ年頃に見える少年が立っていた。
年の頃は十五、六。肩に流れる髪はやはり燦然と輝く金髪だが、白い肌と特徴的な目だけは違えようがなかった。ナルトはヒナタの従兄の話を聞いている。ちょっと似てねえんじゃねえの、とは思ったが賢明にも口を挟まなかった。
麒麟から人型に戻ってから考えるのはおかしいが、やはり礼を取るべきだろうかと薄っすらと考えていると、その心を呼んだかのようにネジの言葉が振りかかる。

「ああ、別に態度を改まる必要はない。公共の場では俺が女仙に怒られるから遠慮してもらいたいが、いい加減堅苦しいのにも飽きた。―――お前は先ほど、自分の名を名乗った。身分を重んじる奴は位を言う、名前を言う奴は逆に身分に捕らわれたくない方だ」
「………クッ」

ナルトには珍しい、喉に絡みつくような笑いが最初だった。
ヒナタとは態度から眼光から反転したように似ていないのに属性は同じなようなネジがおもしろかったのか、誰にも言っていなかった自らの持論を持つ者がいて嬉しかったのかもしれなかった。

「ネジって、おもしれー奴!俺も昔からそう思ってたってばよ!」

……宮司として、数少ない面会人の前に出るたびにそう思っていた。
そしてサスケに出会うまで誰一人として名前を呼んでくれなかったし、名だけの自己紹介もなかった。

どうやら自分は彼と似通った部分があるらしい。
そう認めると、心中に抱える冷気が少しだけ溶け出すような、そんな気がした。


◇ ◆ ◇


人は真実をたった一つに決めたがる。濁りのない、澄んだ決断を抱え、鮮やかに走りきることだけを望む者ほどその身には数々の捨てられない事象が散乱し、何人もの自分がそれを冷静に眺めているのだ。捨てようとするのは易くとも、否、例え捨てたと思い込んでも自らの一部である以上欠落する事はなく、まるでそれは季節の違う花がいっせいに咲き誇る庭のような空間に存在し続け、残酷なまでに真実であり続ける。過去、今、未来と最低限の単純な事柄さえ、解釈によっては憎悪の対象にもなり愛情の対象にもなる不安定極まりないものである以上、人脈の中には数限りない真実と偽者が混在し、愛憎や軽蔑と憧れなど相反する感情があるのはあまりに当然で、それで一つの決断を下すのが永遠に不可能な事であっても、誰もやめない。見えるものは真実であり、自分が存在する事は全てが間違いで、その間違いが寄り集まり真実を構成しているなどと、信じていたら世界が壊れてしまうからかもしれないが、……しかし。


◇ ◆ ◇


「ナルト。―――昇山の様子を聞きたい」
何処からか流れる甘い香りは杏だろうか。それが、昇山の終わりが近しい事を暗に告げる。
ナルトに負担にならないペースで蓬山の入り口を目指しながら、ネジが口を開いた。鵬がいるのか、と付け加えたが、もはやそれは疑問ではなく断定であった。
「ネジの思ってる通りだ。鵬がいたから、あの少ない人数で昇山出来た。多分、もう本隊は到着してるはずだってばよ」

(鵬は本隊に残ってるんだからな)

隠れた言葉をネジが察したかはわからないが、彼は薄く笑ってから、ナルトに向かって腰を折ろうとした。見惚れるほど隙のない仕草だったが、途中でぴたりと動きが止まった。ナルトが顔を覗き込むと、苦悶の表情を浮かべていると思われたがそうではなかった。全くの無表情。開かれたままの瞳に様々な名もなき色が浮かんでは消える。


「………俺が選びたいと思ったのはお前なのに、どうしてお前が王じゃないんだろうな、ナルト」


抑揚のない声に含まれるのは諦めに限りなく似た、決断の色だった。
何事もなかったように立ち上がったネジにナルトは笑いかける。彼も思い切ろうとしての行動だったようだが、自分もまた思い切ることが出来た。天への復讐を抱いた者は王になどなれない。だが、裏切られたはずの国を愛しているのも事実なのだ。


「多分、俺が天を疑ったからだな。昔は大嫌いだったけど、今は夏国が好きだ。確かに令乾門をくぐった時には王になりたいと思ってたよ。でも、俺は自分の好きなものを自分の腕で守りたかったんだよな。天を信じたわけじゃなかった」
「………そうか」
「ネジ。聞いてもいいか?」
「ああ」


―――鵬は、新王は…………ヒナタだな?」


「何故、そう思う」
彼女の名を聞いた瞬間、ネジの声が乾いた。
ナルトは一方は冷徹な侮蔑が篭った、一方は温かな憧憬と庇護欲が篭ったネジの双眸を見つめる。
「ヒナタが胎果なのは、かなり最初のほうで分かった。向こうの家の血が強かったみたいで、容貌はほとんど変わらなかったらしいけど、髪の色が違うと言っていた。向こうと見かけが変わるのは胎果だけだ。――そして胎果もまた、王に選ばれる権利がある」

おそらくネジにとっては、侮蔑と憧憬、全く逆の感情は両方とも真実なのだ。
それから、とナルトは静かに続ける。今になって思えば簡単な答えだった。

「戦闘中に、誰もヒナタを救えない時に、地中から妖魔の手が伸びてヒナタを救った。―――ネジ、お前の使令だろ?妖魔が人を守るなんて、例外はあるかも知れねえが、麒麟に命じられた使令が王を守る以外には思いつかない」
「確かに芙庸は俺の使令だ。前に一度会った時、つけた。だが、世界が変わったとしても俺が昔の親戚に死なれるのが寝覚めが悪くてつけたものでないとどうして言える?」
「言えねえよ。俺にそれはわからない。でも第三の理由はネジが一番知ってるはずだ」
「……」
「ネジはさっき俺を助けてくれる時に、"ナルトか"って聞いた」
―――頭の中の祈りの声が言った。ヒナタ様の声だったと、言いたいんだな」
「麒麟に無意識でもなんでも祈って、動かせるのなんか王以外の誰がいるよ」
「……」
「あの場にいて、祈ってくれそうなのはサスケとヒナタだけど、サスケは黎の出身だ。それにアイツは怒り心頭に達してて、そんなことしそうにねえしな」


沈黙。


「ナルト、俺も聞きたい」
「何でも」
「傷つけたくないと思いながら、傷つける事でしか彼女と向き合えない俺に、彼女を守る権利があると思うか」

王の位は彼女を傷つける。
思わないと言ってほしかったのか、思うといって欲しかったのか。


「思う。誰かを守っちゃいけねえ奴なんて、この世にいない……それに」
「それに?」


「ネジは使令を自分の意志で動かしてヒナタを守った。麒麟としての衝動じゃなく、自分の心でヒナタを守った。それで充分じゃねえのか?」


「………そうかもな」
「そうだよ。心配すんな、俺も友達もいる。ヒナタが王、ネジが宰輔になっても、友達は友達のままだってばよ」

何も守る力も、信じる力もなかった昔とは違う。
夏に訪れる春を精一杯支えるという、力強い言葉だった。
数瞬の間を置いて、ネジは笑い出す。微笑ではなく、腹を抱えての笑いだった。今まで感じた感情という名の強い渦の全てを、憎しみ、愛情、憧憬、など種類に関わらず洗い流すような仕草に見えて、ナルトはそっと金色の髪に指を絡めた。

笑いは同時に涙でもある。
彼が笑い、泣き続けるうちに徐々に冷えていくのを、ナルトは指先から感じ続けた。


―――王を、選ぶ」