残 
六章 

十、


飄、と空気が鳴る。それと全く同じ呻き声がナルトの口腔から流れた。
顔に当たる風は刃を孕むようで、それを掻き分けると全身に静かな痛みが走る。吉量はナルトの無茶な操縦に上手くついてきてくれた。いや、それも獣として獣を追う闘争本能であるのかもしれないが、自分だってそうだ。サクラの前では、サスケとはぐれ行き倒れ寸前になった時、彼女の首筋に刃を当てた自分のままだ。
「見えた!」
さすがはサスケが手塩にかけて鳴らした騎獣と言うべきだろう。
前方に戎徽が見えた。反射的に右手に絡ませた手綱を強くしならせ、一気に距離を詰める。

(………ん?)
同時に空気か一気に凄愴とした冷気を帯びた。
もともと黄海の風は切り裂くように厳しい。だか、身を竦ませるほどの冷気と濃厚な腐臭は有り得なかった。
なるほどな、とナルトは半ば自嘲的に笑った。
風の変化の全てが、付近にいる妖魔は相当の大物であることを示していたが、全く気にならない。それどころか、より一層速度を速めたばかりでなく、ナルトは大きく身を乗り出した。
左足を跨がせ、右側の鐙に辛うじて乗せる。ナルトの身体は左手に絡まった手綱と両足を乗せた鐙だけで吉量に繋がれている状態となったのである。サスケの無茶をするな!という怒号が耳元で響いたような気がしたが、最初にこの乗り方を編み出したのはサスケである、聞く必要もない。

(サクラちゃんは返してもらうってばよ!)
重心のほとんどを右側に傾け、ナルトは右腕を水平に翳した。触れそうなほど近くに獣の背がある。
―――左手は手綱で使えない。糸はサクラをも切り裂いてしまう可能性が高い。右手で扱う剣は安定性にかける。だが、必ずサクラは助けなければならない。

ナルトの選択はある意味では無謀で、またある意味では冷静だった。
今考えうる攻撃方法の中で、最も安全確実、そして最も負担の掛かるものを選んだのだ。


―――オラァァァアア!!」


器用に手綱を裁き、戎徽の顔を正面からみた瞬間に、こめかみに渾身の力で拳を叩き込んだのだ。
他の部位なら効かなかっただろう。だが、不意を突かれたこともあり、戎徽は大きくのけぞった。
その拍子にサクラの鉄鎧にかかっていた爪が宙に浮いたのをナルトは見逃さなかった。サクラの細い身体をもぎ取ると、急反転させる。温かな体温が彼女の無事を物語っており、それがナルトに力を与えた。

右手から銀線の糸が伸びる。今の自分にそれを引ききるだけの力はなかったが、首に巻きついた事を見てから吉量を一気に走らせれば問題はなかった。
背後に血の臭いが立ち上ったのを感じ、ナルトは安堵の溜息を吐いた。
まさに、その時だった。



………ずるり。



辺りに滾っていた生気が一瞬にして死気に転じた。"本体"が纏うものはもはや冷気ですらなかった。鼻腔から喉にかけてを瞬時に焼き払うような、絶対零度の火に見えた。
その業火に包まれた気配が近づいてくる。思ったより巣が近かったようだと考える暇はなかった。

(嘘だろ!?)

さすがに叫ぶような愚は冒さなかったが、ナルトは心中驚愕していた。相手の気配が四方八方から距離を詰めてきている事は分かる。だが、本体は必ず一つだ。戎徽は複数の親玉を囲ったりはしない。
まさか、と幾度脳裏に閃いただろう。乱戦中でもないのに、自分が気配を読めないなどとあるだろうか。

本気でぞっとした。
気配を読めないほど、濃厚な妖気を周囲に張り巡らせるほどの妖魔。
もはや、人が戦えるものではない。
幸いにも、ここには戎徽の死体がある。先手を打って逃げ出すしかない。………そう考えたのは、一秒にも満たない時間だった。だが、それでも遅すぎた。


どこから襲ってくるか、まさしくそれは勘だった。
八方にふさがる気配から殺気の濃厚な部分を感じ、直感で剣を突き出した。

バキッ

ただ、それだけだった。ナルトの勘は見事的中し、妖魔の口腔に剣を突き刺した。
妖魔に対抗できる冬器が、たった一噛みされただけで、折れたのだ。反射的にサクラを吉量の背に放り、手綱を放すことしかできないほど、猶予はなかった。
彼に似合わず、もう駄目だと思った。
結局、自分は何一つ約束を守っては来なかった――ほろ苦い後悔が胸に広がり………


「ナルトというのは、お前か?」


致命傷となるべき痛みの代わりに、この場にそぐわない冷静な声が降りかかり、金色の光が辺りを包んだ。


◇ ◆ ◇


(麒、麟………)

声は、発音前に喉のどこかで絡み、空虚な掠れとなって現れた。
胡麒が新王を選んだ以上、蓬山にいるのは自国の麒麟――珂麒。金色の中に、怜悧でもあり優しげでもある銀色が優美な曲線を描き反射する鬣。妖魔と自分の間に立ち塞がった後姿から立ち昇る硬質で強い意志。

「ナルトなのか、そうでないのか聞いている」
動揺の極地にあるナルトに容赦のない声が振りかかる。寒気がするほど頼もしかった。
「あ、……うん。うずまき、ナルト」
思えば、昇山中で一番展開が目まぐるしいのだ。一時的に言語能力が麻痺してしまったのだろうか、麒麟相手に敬語も入れることが出来ない会話だったが、当の珂麒は気にした様子もなかった。
それどころか、薄く笑ったような、空気の振動があった。

「日向ネジだ。―――下すしか、ないな」

彼の名が脳を通り抜ける。どういう経緯を伝わってかは一生分からないに違いないが、ナルトは胸のうちに探していた答えの全てが浸透したのを感じる。

天命がまだ残っていると言って昇山した。そして天命の具現でもある麒麟が目の前にいる。
………実の所、誰よりも天命を疑っていた自分の前に。



ネジと名乗った麒麟が何を考えているのか、同じ名を持つヒナタと関係があるのか。
謎ですらない、誰でも経験する内面世界の迷走から派生した道しるべに過ぎない。



下す、といわれて何をと聞く愚は冒さない。麒麟が下すのは使令しかない。
静かな双眸が妖魔を見つめている。
ネジの圧倒的な存在感が腐臭を消し去り、世界を塗りつぶしていく。

「使令に下れ」

それは、まさしく宣告だった。
ナルトも大変驚いたが、ネジはそれ以上に自分の声に驚いた。この声を自分は知っている。今までの自分の宣告の声は、冷徹を装い相手を傷つけるためだけの声だった。
この声は違う。知っている声。父の声であり、ヒアシ様の声であり、ガイの声であり、シカマルの声でもあり、祈りの声でもある。守るものを得た、守る為に振り絞る声だと素直に認めた。

今、守るのはうずまきナルト。
それを促すのは、内面に直接働きかけられた、"聞きなれた声"の祈り。


「下れ。藍星」




―――俺がたった一つ持っていた守るものは、彼女の願い……彼女との約束だったらしい。




予感、矛盾、衝動、憎悪、憧憬。
全ての終焉は全ての始まり。答えは更なる葛藤の序曲。