残 
六章 

九、


おそらく、それは本能なのだろう。
たとえどれほど傷ついても獲物を捕らえたならば、長の所へ駆ける行為は。
戎徽は手傷を負っているにもかかわらず、戦闘中よりも遥かに素早かった。
不意の一撃に気を失ったサクラを――幸いな事に身体に爪は食い込んでいないようだが――引っ掛けたまま、風のようにサスケの脇を抜き、森に飛び込んで行ってしまった。

ナルトは一瞬たりとも迷わなかった。
長が手におえない妖魔であること、ここで抜ければおそらく死ぬであろうことも全て忘れた。
剣を左に持ち替えたやいなや、戎徽の後を単身追おうとしたのである。ヒナタが息を呑む音が流れたが、ナルトの次の行動を予測していたサスケの方が早かった。

「俺が行く。お前はヒナタと一緒に隊に残れ!」
「っ冗談じゃねえ!」
ナルトも負けずに言い返すが、それよりもサスケの剣幕の方が勝っている。
「馬鹿か、てめえは!!今は昇山中で、お前は鵬なんだぞ!鵬が途中で抜けたらどうなるか、わかってるだろうが!」
「でも、サクラちゃんが!」


「だから俺が行くっつってんだろ!隊だけじゃねえ、今ここで行ったら、お前は確実に死ぬ!夏王登極を見届けに来たサクラがそれを喜ぶと思うか!!俺やヒナタがどれだけお前が創る国を見たかったかわかるか!?ここでお前が倒れたら、民は後何年耐えればいい!?それまで夏が持つわけないだろうが!」


「……好きな女一人守れねぇ奴がどんな国を創れる!!!俺ってば確かに馬鹿だけど、これだけはわかるってばよ!そんな奴に絶対天啓は下らねえ!!俺は絶対にサクラちゃんを守るって決めていた!!あの日から、サクラちゃんが俺達を助けてくれた日から、自分と約束していた!!!!」


それは、人である以上誰もが持つ望みであり同時に卑屈さであり、愚かさであるのかもしれなかった。
蒼い瞳がまるで別の世界に繋がっているかのような深さを孕む。
ほとんど一瞬だけナルトとサスケは睨み合ったが、自嘲的な笑みで崩れたのはサスケだった。

(なるほど、がむしゃらに生きれる強さ。―――賭けろということか)

「………乗ってけ。吉量なら、あれがいくら早かろうと確実に追いつける」
「サスケ!」
「その代わり、必ず昇山しろ!お前が王なのか、そうでないのか、その前にお前はガキの頃から共に生き抜いてきた友達だ。いいな、馬鹿野郎!!」
吉量から飛び降り、ナルトに手綱を放り投げてサスケが怒鳴った。
次の瞬間には、ナルトの足は踏み鳴らすほど強く地を蹴っていた。

「ナルト君!」
ヒナタの行き場のない手が中空を一瞬彷徨うが、すぐに下ろされる。
彼が誰を想おうが、彼の望みの為に生きると決めたのは他でもない自分だ。
ヒナタは彼女には似合わぬほど力強くナルトの背を押した。
「大丈夫!どんなことになっても隊は守る!―――行って!」


ナルトの横顔に一瞬泣きそうな光が漏れたが、その理由は誰にも分からなかった。
もしかしたら彼は、王と言うよりは守る為に生きる麒麟に似ているのかもしれないととりとめのない考えが薄っすらと過ぎる。

「ヒナタ。………終わったら、肩くらい貸してやる。一気に決めるぞ!」
優しげであり憐れみを内包したサスケの笑みは、酷く自分のものに似ていた。
「………ありがとう」


くしゃりと髪を撫でられ、その手が離れていったのを感じながら、ヒナタは強く祈った。
戦闘において一度も祈った事などなかった。それでも、祈らずにはいられなかった。


―――だが、誰に祈ったのか、ヒナタに自覚はなかった。


◇ ◆ ◇


王を選んでいない麒麟の寿命はせいぜい二十年なのだそうだ。
歴史を紐解いても、王を見つけられずに消えていった麒麟は少なくない。つい最近までは俺もそうやって消えていくのかもしれないと思っていた。夏の国に降る涙雨に濡れながら、檻の中を放浪するのだろうと。

………それが、数日のうちの違和感で消えた。
一日一日、何かが近づいてくるという圧迫感にネジは苛まれていた。確かに圧迫感でありながら、それは不快でもなくネジを何処かに閉じ込める物でもなかった。
恐ろしいほど優しく、憎いほど真っ直ぐな、永遠に理解できない不快さを内に含んでいた。


そして、世界が広がった。
今まで何を見ていたのか、心底疑ってしまうほど、全てのものがネジに対して開かれたのだ。
絶えず民の声が流れてくるようになった。子供の声、大人の声、断末魔の声、自分に希望を託す声、溢れるほどの言葉が脳内に散乱し、一つ一つ埋め込まれていく。
ようやく、これが麒麟なのだ、そして自分は間違いなく麒麟で逃げることは叶わないのだと悟った。
……その違和感が、彼にとっての天啓なのだった。


ネジは必死に自らを制御しようとする。
王を選ぶ。そう決めたからには、王だけを見つめなければならない。
だが、どうやっても彼女の白い顔が消えなかった。

あの時は、ヒナタ様を過去へ葬り去る事など簡単だと思った。それは、欲しかったものを全て持っていた彼女への子供じみた復讐だった。俺には彼女を傷つけたという、不可解な嫌悪だけが残された。
殺したいほど憎いはずなのに、同時に抱きしめたいほど憧れていて……傷つけたくないという事象に辿り着く。もう許されないほど彼女を傷つけた。ここに来る時も、衝動に任せて手を振り払った。

―――その俺に、ヒナタ様はあの時、笑顔で声をかけてくれたのだ。

ネジの身を切り裂く刃の名は罪悪感と言った。縄のように絡みつくそれは、もう会うことはない彼女の記憶を鮮やかに紡ぐ。
民を憐れみ、ここまで迷った償いをしたいのに。何故、彼女の顔だけが消えない。

いや、何故彼女の顔以外に何も見えない――――





瞬間、彼の中を電撃が走った。
流れ込んできた彼の行動全てを決めるほど強い力は、何も考えられないほどの衝動へと変換される。
無意識のうちに輪郭がぼやけたかと思うと、ネジは転変していた。