残 
六章 

五、


「よし、ともかく一段落だな!」

ナルトの明るい声が響き渡ったのは、開門からほどない時刻が過ぎた後だった。彼の声を皮切りに、張り詰めていた周囲にも安堵の溜息が漏れ始める。
油断するなよ、とサスケのみは文句を忘れなかったが、普段より声は柔らかかった。
彼らは完全に気を抜いてしまったわけでは断じてない。黄海はそれほどに人に恐れられている。

「人間休める時に休んでおかないと!ね、ヒナタ!」
「そ、そうだね……」

過去に黄海を生き抜き、昇山を成し遂げたサクラにも笑顔が見え、ヒナタと天幕を張っている。
それぞれが、集団に離れすぎない程度の場所に野営の場所を作っていく。
―――誰もが知っているのだった。ここが、最初で最後の安全地帯である、と。


天伯が巌のような令乾門を開くと、真っ先に黄海で狩をする者達が駆け出す。彼らは本日一日で黄海を駆け巡り、騎獣にする妖魔を捕まえるのだ。
その後にナルト達のような昇山者が続く。それぞれが護衛の者を連れているので、集団は膨れているが、その国の生まれである以上誰もが麒麟の選定を受ける権利を持つ。霊王のように護衛の者から新王が選ばれる事もある。
昇山者達は吸い込まれそうに高い雲海の下を一丸となって駆ける。
駆けると言っても、ほぼ全ての者が持つ騎獣には乗れない。雲海の上には妖魔が旋回しており、集団の中にいる分にはそれほど危険はないといえども、高度を上げてしまうと彼らの餌食になってしまうからだった。

夏国の空位は長い。
最初は壮大な昇山風景が見られたが、今は護衛のものまで入れても閑散としていた。
人数が少ないことも有り、誰も欠けることなく彼らは黄海最初で最後の城壁に辿り着いたのだ。

そこは、過去、昇山のたびに少しずつ土嚢が運ばれ造られた。
見張り台からは明日の行程にあり、黄海最初の難関といわれる草原まで見回せる。雨風も防げるし、慣例的にこの城壁にいる日は妖魔の襲撃はない。―――不安なのは、出発の朝。
さすがに火を焚く時は煙が天空に昇らぬよう、石で釜戸を作る必要もあるし、単独行動が出来るわけもないが、皆が城壁にぴったりとくっついた状態で陣を張った時には自己紹介まで行われていた。

「サスケー、ちょっと」
「なんだよ。もう問題事か?」
一昨日、ほとんど駆け込みのスケジュールの中受け取った糧食を確認していたサスケが立ち上がる。
隣にいたヒナタに刀の砥石を渡すと、ナルトはちょっと気になることがあると前置きをして口を開いた。

「さっき、皆が天幕を張ってる間に三匹も蟲を見つけた」
証拠、と刀に貫かれた蟲を掲げる。
「(サボっていたと思ったら、そんなことをやっていたのか)……実は俺も、お前らを見つける前に一匹退治してる」
「……気になるってばよ」

冷静な光を孕みながら伏せられた視線にサスケは同意する。確かに喜べない事態だった。
ナルトの剣に突き刺された物は蟲という。れっきとした妖魔だ。
妖魔と言っても、強い攻撃能力を持っているわけでも獰猛なわけでもない。大抵は草陰などに潜み、獲物の足を引き摺り喰らう。故に、気をつけていれば冬器を持つ剣士ならばほぼ退治できるのだ。ナルト達の敵であるはずもない。
だが、蟲が忌み嫌われる理由は全く別のところにある。―――蟲が、大物を呼ぶと言われている。

「確かにな。明日の午には難所と呼ばれるあの草原を抜ける。見晴らしが良すぎるし、かといって夜通過するには遭難するほど広すぎる」

蟲が現れると、まるでそれを追ってきたかのように大物の妖魔が現れると言われている。
黄海を行く者にそのことを信じぬ者はいないし、少なくともナルトとサスケは身に染みて知っていた。蟲の現れた村を夜闇にも構わず逃げ出し、後日、村の全滅を聞いた事は一度や二度ではない。サスケの母国、黎とナルトの母国、夏の動乱の時代の逃亡を二人は決して忘れない。


……嫌な予感がする。
声に出さない危惧を視線を合わせるだけで二人は確認しあう。

昔は敵わない物には近寄らず、逃げていた。良心など捨て去ったと思った。
だが、今は戻る道などないのだ。そして、決して死ぬわけにはいかない。

感じなれた胸騒ぎ。
辺りの穏やかながら静かな雰囲気すら、嵐の前の静けさに思えて仕方がなかった。


――――残酷なまでにその予感は的中した。


◇ ◆ ◇


男は早朝の空気をゆっくりと肺に送り込む。たとえ、黄海という恐ろしい場所でもこんなに空気は澄んでいる。
一瞬だけ、ここが黄海ではなく、自分の故郷の村のような気がして振り返る。あそこも、四季それぞれに心地よい風が吹く所だった。幼い頃からその風邪に抱きすくめられて育った彼はそれを懐かしく思う。目の前には特に豊かでもないが、人生を篭めて耕していた畑が見えていた。男は探す。家にいるはずの、優しい妻を。
妻の声が何処かから聞こえてはいるのだ。もう起きているの、朝餉はまだよ、と笑う彼女の声が。

歩もうとして、ぴたりと足を止めた。愛する妻が待つというのに、行きたくないと思った。
妻の顔を思い浮かべ、―――目を見開き、首だけになった彼女。
律王。妻を、村を、全てを瓦解させた王。処刑を見ることさえ出来ず出来ず、全てを失った。彼は村を滅ぼせという勅令が出た時、中央に出稼ぎにきていたので助かった。助かってしまった。
その後は何でもした。最後には昇山する旦那の下僕に落ち着いたのだった。

皆が起き始めた音がし、それぞれの下僕が朝餉の用意をし始める。
男もそれに便乗しようと、釜に手を伸ばした時、視界に暗い影が覆い被さった。
誰かの切り裂くような叫びが昇山最初の襲撃を告げたが、男の耳には入らない。


―――蠱雕(こちょう)!!


そう叫ぼうとした喉は、せり上がった血反吐で埋め尽くされ、首は地に落ちていたのだから。
男だけではなかった。蠱雕は群で、早朝の城壁を席巻しようとしていた。
そして、人にとっても妖魔にとっても殺戮が始まった。


◇ ◆ ◇


「馬鹿な!」
赤い空に舞い、蹂躙を始めた妖鳥――蠱雕の群れを見て、サスケが思わず声を荒げた。
まさかこの城壁で最初の襲撃に会うなど、誰が考えるだろう。既に騎獣である吉量は全身を逆立て、起き上がっている。城壁の上にいた彼らにはまだ被害はでていないものの、それも敵に羽がある以上時間の問題だった。
考えもしなかった事態に、自分では呆けていると思ったが、視線だけは的確に被害状況を見ている。
一撃で首を刎ねられ、即死した者。今なお、懸命に弓を射る者。瀕死の者。

(また、鵬がいないのか!?)

声にならない悲鳴にも近しい音がサスケの口から漏れる。
このタイミングでの襲撃。将来王になる者――鵬がいれば、昇山の危険は回避されると言うのに。
ナルトではないのか!サスケが鉛のような絶望を飲み込みかけた時、サクラの叫び声が響く。
「違う!鵬がいても、全部危険がないわけじゃないの!」
天帝が、王を試しているのだから。
「あの草原で襲われたら、ひとたまりもなかった!今、ここで仕留めておけば、草原を抜ける間に草原の妖魔以外の襲撃はないわ!これが、鵬なのよ!―――間違いなく、この中に王はいるわ!」
彼女の声に背中を押され、それぞれが飛び出していく。
この機を逃さず、ナルトが素早く指示を出した。
「サクラちゃん!まだ生きてる奴の手当てを頼む!」
「了解!」
「サスケは吉量で、上から追い落としてくれ!下は俺とヒナタが行く!」
「わかった。絶対に無茶するなよ!お前に死なれるわけにはいかない!」
素早く吉量の手綱を引き寄せ、背中に飛び乗ったサスケだが、ナルトには聞こえぬようヒナタに耳打ちするのを忘れなかった。「ナルトを頼むぞ」と。力強い返答を聞いたか否か、うっすらと笑みを乗せて、空に舞い上がった。
「ヒナタ、行くぞ!」
底光りする剣に気合を孕め、ナルトは大振りの剣を抜く。
「はい!」
ここでは誰も知らない印を結び、ヒナタもまた使い慣れた刀身に紅の光をあてた。
戦場で最も大きく感じるナルトの背を追い、全員が砂塵の舞い散る鮮血の舞台に踊り出る。

(ナルト君は、絶対に死なせない………!)

どこにこれだけの熱があったのだろうと疑うほどだった。
ナルトの技量が自分の到底及ばぬ所にあると知っている。だが、昇山を乗り越える以上、怪我の一つが命取りになりかねない。
サスケとたった二人で交わした約束だった。どちらであろうと、彼に振りかかる危険は排除する。間に合わない時は盾になってでも、彼を守ると。

「行くぞォ!」
裂帛の気合と共に、蠱雕の首に一撃を叩き込み、返り血を浴びたナルトの背にヒナタは滑り込む。
その温もりを感じたのも一瞬。
一刹那の後には、高く跳躍し一匹を両断していた。


悲鳴と断末魔と剣の澄んだ音を血臭が静かに包んでいった。