六章 迷走 三、 ネジが蓬山に辿り着き、転変を解いた時には稜馨(りょうか)が大変怖い顔で待ち構えていた。もっともここでいう怖い顔とは彼女の主観、つまり彼女は怖い顔であると思っている程度なので、ネジには通用しない。 彼女はここの女仙である。昇仙してまもないが、聞けば厳しい人生を送ってきたらしい。芯のしっかりした女性だ。女仙の中では唯一の夏出身者で、珂麒であるネジの世話役に抜擢されている。 「……一応、言い訳をお聞きしましょうか」 (まったく、珂麒と胡麒といったら……) 決して口には出さないが、稜馨は心中穏やかではない。 他の女仙達の話から総合的に判断すれば、彼らはまだマシな方に分類されるとは思う。その比較対象がいろんな意味で名高い延麒でなければの話だ。 (普段は珂麒も胡麒も聡明で落ち着いたお方なのに……) どうしてか、二人が揃うと脱走事件が後を絶たない。使令もいる。危険はないと言われていても、心配せずにはいられない。 もし、もし。麒が失われたら。 夏はもたない。もうあんな荒涼とした国土は見たくない。 稜馨から布を受け取り、手早く身につけたネジは何か考えているように俯いたままだ。 日頃、頭の回転の速いネジに言い負かされてばかりいる稜馨は今日こそはと身構える。 「別に、ない。……悪かった」 予測されるあらん限りの言葉を思い浮かべていた稜馨は、恐ろしく素直な謝罪に当然のように当惑した。当惑して初めて分かる。―――様子がおかしい。 天邪鬼だと評判の珂麒だ。謝るにしても気まずげに目を伏せるだろう。 だが、伏せられた目は何も見ていない。それどころか、"あの"目に似ている。 彼が初めてここに来た時の静かに諦めた目。 ネジはそのまま踵を返している。 一人にしてくれとその背中が語っていたが稜馨も引き下がるわけにはいかなかった。 「珂麒……!」 (一体、彼に見える激しい憎悪のようなものは何?) 追いすがる彼女にネジは一応振り返ったが、それもまるで物を見ているかのように虚ろな目だった。 「ああ、これも言っておく。胡麒は戻ってはこない。―――孤王を選んだ」 「………!」 絶句する彼女が我に帰ったときには、ネジの後姿は消えていた。 ◇ ◆ ◇ 前王崩御から早十三年。どうしてまだこの国は生き長らえているのだろうと最近は思う。 律王に仕えていた宰輔は失道によって衰弱した身体に負け、一年と経たぬ間に崩御。もっとも、サスケを含め、国民のほとんどは宰輔が助かるとは思っていなかったから、夏の亡国への旅路はまだ始まっていなかったといえよう。 亡国の始まりは、蓬山の珂果が蝕によって流された事だ。 以後、彼が見つかるまでの九年間、夏国民は望みのない生活を強いられた。 何故、この国は滅びなかったのか……。 転覆寸前の朝廷にしがみ付く自分達官僚、州に配分される前に消え行くなけなしの援助、悪名高い州候達ですら食いつなげないほどやせ細った国。 ナルトはこういう。天命がまだ残っているからだ。 半ば納得する一方でサスケはこう思うのだ。早くナルトを昇山させたい。サスケが王だと信じているナルトを。そうすれば国は救われる。 だが、順に恵まれなかった。 別の言い方をすれば、その頃はサスケもナルトが王であるというはっきりとした確証がなかった。 次第に確証は強まる。見込みのあった者達が悄然として帰って来るごとに。 (もうすぐだ………) 春はすぐそこまで来ている。 次の昇山は一月後に迫っている。ついに、ナルトが蓬山に行く日が来るのだ。 虚海に浮かぶ島国の夏から、陸国に行くのはかなりの危険が伴う。 空、海共に飢えた妖魔を抱え込んでいるからだ。陸国にはナルト、サクラが黎を頼り、ヒナタ達が他の国で冬器を探す旅に出ている。いくら騎獣を使い、空から向かうと言ってもここで死んでは笑い話にもならない。一計を講じたのはサクラだった。 妖魔は血の臭いに誘われやって来ると言われている。 一度獲物を殺せば、三日ほど付近の血臭に惑わされ、襲撃の可能性が格段に減るとも。 皮肉な事に武器も食料も最低限しか持たせられなかったが妖魔の死体だけは有り余るほどにあった。一騎につき、一つ。襲撃に会うたびにそれを投げ捨てていくという計は思いのほか上手くいった。 既に冬器確保に乗り出した仲間達の無事は鳥が伝えてきている。 残る作業は出来るだけの雑務を片し、それぞれが門に赴くだけ。――それが、一月後。 大方サスケは仕事である食糧及び雑貨の調達は終えている。無論、夏からは無理だ。虚海があるし、どこにそんな貯蔵があるのか分からなかった。 ナルトが黎国官吏であるサクラの伝を頼ったのと同じように、サスケは昔の仲間たちを頼った。 自分と同じように親を失い、売られた子供。旅芸人で上り詰めていたのもいれば、剣の腕前を買われ州師に入隊していた者もいた。圧倒的に行方しらずの者が多かっただけで。 本当に最低限の荷物だけは陸で受け取る事が出来る。 「―――サスケ様」 扉の向こうから押し殺した声が聞こえた。 契約である以上、昇山の日までにサスケ自身がそれを受け取りに行かなくてはならない。 「よし。行くぞ」 時間的にはすれすれの計画で動きながらも、サスケはいつもの声で出発を告げる。 ―――あがった歓声も、切ないほどに少なかった。 乾ききった土をサスケの騎獣である吉量が蹴る。後続の力強い摩擦音を聞きながら、サスケは静かに祖国を見下ろした。 やせ細った土地。幽鬼と見まがうばかりの民。墓場に収まらず、道端に増えていく塚。 これが自分が育った国の姿なのだった。 (待っていろ) 滅びようとする国を黄昏へと色を変えた太陽が照らす。民の血を蒼穹に溶かし込んで出来たような空が夏をひたすらに押しつぶそうとしていた。 覚えている。生き延びた日、この空が生命への活力に満ちていたことを。 どんな王であれ、律王が即位した年に到来した温かい春のことを。 (次には、新王の供として戻ってくる) 鬱金の空に映える影が徐々に遠ざかっていった。 |