残 
一章 細の祈り

二、


鏡の中に映る彼は日ごろの無愛想から解放され、ほとんどそれとわからないほどに微笑んでいた。
意外に似合うじゃないか、そう心中は満足していた。

今日の朝まで呪印を隠す為、包帯を巻いていた額にはもらったばかりの額当てが輝いている。
銀色に光るそれに刻まれた木の葉のマークを恐る恐るなぞるうちに、一歩進めたのだという安堵が体全体を流れ始めたのをネジは感じた。
きっと、父も同じ思いで木の葉の一忍となることを望んだのだろう。
日向のためだけではなく、自分が守りたい物を見つけて戦うために。―――それは奪われたが。

明日から、これをつけて下忍としての任務が始まる。
強くなりたい、せめて宗家が自分を必要とするくらいの力が欲しい。ネジはそれ以外に、確実に自分を守る方法を知らなかった。
当初はそう思ってアカデミーに入った。だが、いざ下忍になってみると心躍る自分がいる。
理性はすぐ奪われると忠告する。それももっともだとして、今だけは素直に喜ばせて欲しかった。


(………父上、ようやく進みました)


必ずや俺が日向を滅ぼしてみせます。
叶わずとも、滅びの道へ一族を誘う存在になります。


日向家の墓に眠る父にそう報告するのはおかしいのかもしれないが。
そう苦笑しながら、父の墓に向かおうと部屋を出る。


―――ネジはその願いに現実性がなく、当人自体が"そうできない"ことを知らない。


◇ ◆ ◇


桜はあの時ほど満開ではなく、春の花の微妙な勢力争いは梅のほうが優勢のようだった。
ネジは道々拝借した桜と梅の枝を抱え、たんぽぽだけが色合いを添える寂しい細道を歩いていた。父の墓に供える花は普段は菊だが、この時期だけはこの奇妙な花束にしている。
本来は合わさるはずのない花達。それを庭に従える日向を皮肉っているのかもしれないし、最期まで兄と相容れなかった父への慰めとしたかったのかもしれなかった。

道を進むと突き当たりに墓地が見えてくる。
そこは宗家のものとは切り離されており、分家の墓だけが粛々と列をなす……そんな所だ。
墓の周りは桜だけが取り囲み、父の墓はその中でもひときわ華やかな桜の下にあった。


「ヒナタ様、知っていますか?」


しゃがみこみ、花を捧げながらネジは声を出す。極力冷たく、抑揚のない声と意識しながら。
背後に付いていている者がいるとわかっていた。その目的も。
貴女には、人を憐れむ余裕があるのか……。そう言いたい気持ちを押さえ、発した言葉に、ヒナタがびくっと肩を震わせた気配を感じ取り、ネジは背後を振り返らず、薄く笑った。


「桜の木の下には死体が埋まっているんですよ。死体の血を吸収して、花は美しく咲く。墓の周りが綺麗だろう。俺たち分家は何をしても宗家に敵わないように出来ていますが、これだけは勝っていると思いますね」
「………ネジ兄さん……」
「そうだろ?宗家はよほどのことがない限り、安寧な死を生まれつき約束されている。分家が血を流し、桜を咲かせることを代償としてな。―――考えたことがありますか?何故、宗家の庭には梅と桜という毒々しいばかりの春の花が不自然に咲き誇るのか」

ヒナタが何か言おうとしたが、ネジはそれすら気にしていなかった。


―――父上達の犠牲があるからだ。ヒナタ様、何故ここに来た?父の寿命を縮めた原因の貴女が」
「それは……私のせいだったと、………申し訳なくて」
痛い所を突かれた。ネジの言葉は常々ヒナタが思い悩んでいる事そのものだった。

自分が誘拐されなければ、ネジ兄さんのお父上が影武者となる必要もなかった。
次の日からいきなり遠くなった従兄弟の背中。"遺体すらない"墓標に彼が通いつめるのを見るたびにヒナタの心には抜けない楔が打ち込まれていく。

「ご立派な事だな。だが……」


がくん


冷笑を浮かべてネジが振り向いた、まさにその時だった。
墓標から黒い手が伸びて、彼の足首を捕まえたのは。そして、ネジの体が大きく傾くのは。

―――!」

土遁の可能性をすぐさまはじき出したヒナタは白眼で土中を探る。
だが、愕然とするだけの結果に終わった。


忍の姿も、チャクラの動きすら見えない。"ただ何かが動いている"
それはヒナタの勘だった。動きは明確な意思を持って、従兄を攫おうとしている……!

反射的に走り出そうとしたヒナタとネジの目が合った。
ヒナタは慄然とする。あの、日常の中でも警戒心を忘れた事のない従兄がこの突然の手に対して、抵抗するでもなく観察するでもなく、ただ、ぼんやりと中空を見ている。
震えた、心底震えた。初めて、得体の知れない闇に放り込まれたような気がした。


「ネジ兄さん!!」


墓標に沈みつつあるネジを掴もうと手を出しながら、ヒナタは悲鳴に変わった自分の声を聞いていた。





………これは一体なんだ?
そうぼんやりと思ってはいるのだ。抵抗する気が起きないだけで。


――――珂麒
……
俺は、日向ネジだ
――――
珂麒、お探し申し上げました。……にお戻り下さい
……何処に行く所がある?
――――
夏国に、王をお選びになる為に


ふと気がつけば、左手首に黒い手が巻きついている。
最初は人間の手かと思ったが、黒豹のような手だった。
一体この手は誰の物で、何の目的があって俺を呼ぶのか。
冷静に思考をめぐらしながら、次第にネジの眼から光が失せていく。


その手が心地よかった。この向こうに行くべき世界がある、そんな気もした。
それが墓標の下の死の世界であれ、知らない世界であれ、ここにはもう守るものがないのだから。
滅ぼそう、父にかけた言葉は約束ですらなかった。
生き残った身として、死なないためのただの足枷だった。


――――ネジ兄さん!


ヒナタ様の声?いや、それにしてはあまりに不明瞭だ。
はっきりと自分を呼ぶ黒い手の声が今のネジにとって現実に摩り替わってしまっていた。彼の耳には"ヒナタの声こそが、彼方からの幻"に聞こえていたのだから。



白い手が近づいてきた。
全く五月蝿い、少し休ませてくれ……!



ほとんど消えかける意識に身を任せながらも、ネジは白い手を振り払った。
この後、彼が切るような罪悪感に見舞われるその行為を、恐ろしいほどにはっきりとしてのけた。







「………そんな………」


また何も掴めなかった……。
手には振り払われた瞬間に思わず掴んだ、まだ新品の額当てだけが握られていた。