残 
六章 

二、


朝露に濡れた木戸をくぐり抜けると、しんとした眠りについたままの平屋が目に入る。
現在胡麒と新王が休んでいるという村長の家だ。
しばらくそこに立ち耳を澄ませる。やはり歌は木戸の奥から響いていた。

儚い声だ、とヒナタは思う。
決して細くも掠れてもいないのに、何処か物悲しい。過去に比較対象があったような気がして、少しだけ口ずさんでみたが、自分の口から流れ出るのは静謐な諦めの歌でしかなかった。
確かに諦めの要素も入ってはいるのだ。
それを殉教と呼ぶのか、祈りというのか、ただの助けを呼ぶ声なのかは定かでなかったが、その全てを穏やかな快哉が内包している。


妻よ、夫よ
悠久の旅路を共にした我が伴侶よ
貴方を残して去り行く私を許してくれますか


乾ききった砂利道を踏みしめ、母屋を通り過ぎる。離れがあると村長が言っていた事を思い出し、そちらに足を向けると景色に溶けいるかのような後姿が見えた。
自然に力を抜かれた背中にはしばらく前に見たものより鮮やかな金髪が流れている。


(胡麒……)


だが、何故彼があの歌を知っているのだろう。
胡麒は泰麒や延麒とは違い、蓬山に育った麒麟だと聞く。麒麟である以上、向こうにある祖国に行く事は出来る。しかし、翻訳能力を持つため、向こうの言葉を覚える必要はない。
その発音を知らぬはずの胡麒の口から流れる優しい歌。


(もしかして、ネジ兄さんを知っている……?)


珍しく確信の持てる考えだった。
麒麟は蓬山にいて王を選ぶ。なら、時を同じくして空位だった孤と夏の麒麟が共に蓬山にいてもおかしくはない。相手は麒麟だ。声をかけるべきか、かけるとすればどうしようか思案し、一度顔を上げると既に目が合っていた。
揺ぎ無い二対の目に見られ、思わず視線を外す。こういう自分が何より嫌いだった。

―――お前、ネジと同じ目をしてんな」
だが、その反応に対して声は少しだけ笑っていた。
「名前、なんつーの?」
「………夏国禁軍におります、日向ヒナタと申します」
無駄のない動作で腰を折ってから注意深く答えた。
やはり彼はネジのことを知っている。そうなれば、問題は何処まで話していいかだ。

「俺ァ、奈良シカマル。一応胡麒なんてこともやってるがな。ヒナタ、お前はネジと同じ一族なんだな」
「………はい」


(あの日向を憎んでいたネジ兄さんが彼には自分から話した……?)


「不思議そうだな。ネジが俺にそれを話したことが」
「失礼ながら」
「アイツが言うには、もう一族は鳥篭になりようがないんだと。ヒナタ、呪印って知ってるか?」
聞いているうちに、なるほどとヒナタは思う。
彼の押し付けがましくない、それでいて境界線をわきまえている話方ならネジも目くじらを立てたりはしないだろう。
「私は向こうの世界では宗家――つまり日向の本家に生まれました。ネ…珂麒は分家の方でいらした。宗家は宗家としての立場を守るため、分家の者には秘術で呪印を施したのです」
「………なるほど」
「宗家のみがその呪印を発動させ、呪印を持つ者を殺すことが出来ました」


それが、誰にとっても鳥篭だった。


シカマルはそれ以上呪印の事には触れず、話題を変える。
「お前らって向こうじゃ有名な忍?……なんつーか、戦士だったんだって?」
「はい」
「ネジも戦ってたって言ってた。アイツは強かったのか?」
強かった。昔からずっとそれが苦痛で仕方がなかった。
「はい。天才とさえ呼ばれる存在でいらした」
「そっか」



(ネジ………お前も、結局はこうなるのか)



ヒナタに言うつもりはないが、ネジが彼女の事だけ話さなかったのがようやくわかった。
彼女は真っ直ぐで綺麗だ。自分の心のまま突き進む強さも持っている。
……出会わなければいいのだ。ネジとヒナタが。
世界は広い。だからこそ自分はなかなか王を探し出せなかった。
広漠な世界に埋没し、互いの存在が思い出であるうちはネジはまだ救われているのかもしれない。

彼の性格から言って悔しいとまず思うだろう。
もしヒナタに出会って、昔の同朋が今も戦いつづける姿を見てしまったら、血を厭う存在になってしまった自分を憎んでしまう。更にヒナタが眩しく見えてしまうかもしれない。
だが、とシカマルは独白する。
今予測できてしまった事実は誰にも言わない。最後まで、友である珂麒に選択して欲しい。



きっと、この二人は出会ってしまう……


そのときの、恐ろしいまでの感情の高ぶりの理由をネジが知った時、どうなってしまうのだろう。


「ヒナタ。昇山するのか」
「はい。……必ずや、即位して頂きたい方がいらっしゃるので」
彼を守るために。彼が作る世界をこの目で見るために。

「………ネジは歌を教えてくれた。いつか、歌えるようになったら、さっきの続きを聞かせてやってくれ」


(それはどういう……?)


疑問を口に出す前に、シカマルは一度だけ振り返ってから母屋へと歩き出していた。