残 
六章 

一、


妖魔討伐の報を告げる前に快く冬器を貸してくれた村長は、つい先ほど胡麒が来て王を選んだと興奮気味に話した。今日は日も落ちているので、村にお泊めする事になったのだが、場所他食料などでてんてこ舞いなのだと言う彼の表情は希望に満ち満ちていた。

ヒナタ達が自分達は次の安闔日には令乾門から昇山する。出来る限りの冬器を集め、仲間と現地で待ち合わせることになっている。まだ間があるので、ここを拠点にしばらく泊めて欲しいと申し出ると宮城から迎えがくるまで王と宰輔の護衛をするのを条件に許してくれた。
民家の納屋にある藁中での眠りだったが、妖魔の影に怯える野宿とは比べ物にもならない。
ヒナタも、仲間達も空腹すら忘れ、泥のように眠り込んだ。



……その夜明けである。
外には久方ぶりの美しい東雲がかかる淡い夏の早朝。
全く闇に放り出されたような眠りを貪っていたヒナタは突如として意識を夢に引き摺られる感覚を覚えた。
黒一色だった背景に淡色の光が浮かんだかと思うと、少しずつ背景に滲んでいき、絵筆のように滑らかに何かを描いていく。まずは新緑のざわつく木々、血の滲んだ丸太、開かれ放置されている古びた巻物。
しばらく眺めていると、絵筆は止まり、ヒナタの視界から絵が生まれていく。
背後にクナイや手裏剣の刺さった木。自分が立つ丘から見える荘厳な平屋の屋根瓦。門に通じる木戸は半開きで、何処からか水をまく音がする。

(私の、家……)

それを認識した瞬間に視界が狭まり、再び血の滲んだ丸太に目が集中する。
はっ、と気合を入れる声、掠れた息遣いもすぐ横に感じた。
そうだった、こうやって修行をしていた。父や妹にはばかり、家の庭ではなく裏山でこっそりと。

(……あ)

ヒナタの視界から丁度隠れるか隠れないか、その微妙な距離にある木の裏側に人影がある。
さわさわとした風にゆったりと身を任せ、瞑想している彼の口元は嗤いを浮かべていた。
言葉にする必要もない。彼は成果の上がらぬ修行をしている宗家の自分を静かに嘲笑っている。
気にせず声をかければいいのだった。ようやく気がついたというように、ネジ兄さん、と。
自分は切り落としてしまった、日向の家に特徴的な長髪を肩に流しながら彼が振り返る。今日こそはその目を見て臆すまいと力を篭めるが、夢はぼんやりとブレた。自分が目をそらしてしまった証拠だった。

――――

彼が何か言った。
滑るような嘲りと力強い憎悪を篭めて。自分は何も返せなかったが、彼はもともと気にしない。
背筋の通った影をゆらつかせながら、印を結ぶ。
血管の浮き出た目で自分を睨む。慌てて構えるとそれを待っていたのだろう、一気に彼は目の前にいた。


父によく似た顔がぐにゃりと歪む。
口の中に鉄の味が浸透し、視界が足跡だらけの土に塗りこめられた。彼の声が響く。
実際にこの言葉を聞いた事があるだろうか。定かではないが、後姿だけでそれは語り尽くされていた。


(安心して下さい。貴女はどれほど自分が虐げられようとも、日向もヒアシ様もハナビ様も憎めない。憎めない貴女の苦しみは俺が埋めましょう)


やはり聞いた事があるとヒナタは思った。
そう、内容があまりにも現実的に過ぎたのが悔しく、封印してしまっていた。


(この手で終わらせてやる。貴女は見ていればいい。一番最後に俺が―――


彼にはそれが出来るかもしれない、いや出来たのかもしれない。
望みは変えないとばかりに結んだ口元、日々遠ざかっていくほどの体術、それでいて諦めた目。
……泣いている。彼が泣いているように見えた。

そこまで言い切ると彼は地に伏したままの自分の横を過ぎて、小さな石拭きの小道に入っていく。
前方を睨む彼。彼は既に死に場所をここに決めていた。道の先にある、春だけの静かな墓場に。
しばらくして、歌が聞こえてきた。彼の声だった。
小さい頃から彼を知っているが、歌声となるとヒナタはこれしか聞いた事がない。
不思議な事に歌詞は思い出せなかった。夢の中で確かに今彼が歌っているというのに、それは波の音にしか聞こえない。細波、凪、嵐。低めの声が愛しむようにメロディを空気に溶かしていく。
鎮魂歌だ。


いつの日か、一族の中でも天忍と囁かれる彼が誰もいなくなったこの場でこれを歌うのだろうか。
夢を為した後、広漠とした日向の土地の中で、たった一人でこの歌を捧げるのだろうか。
その様子まで想像できた。笑いもせず、無表情のまま彼は歌う。
もはや、泣いているようにすら見えなかった。


鎮魂歌は彼の声ともう一つの声を孕みながら、何重にも宵空に上っていく。
誰の声だろう、そう思ったのも束の間で、ヒナタの目は彼の髪にくぎ付けになった。
根元から、墨のような黒を侵食しながら髪は金色に変色していく。
怜悧な銀色の光を端々に織り込みながらも眩しい金髪が荒野に流れ、その途端彼は膝をついた。

駆け寄ろうとしても無理だった。夢なのだから。
一族が滅んだ日の夢を見る自分はまるで地に足を縫い付けられたように動かなかった。
黄金の髪へ――麒麟へと変わった彼は痙攣にも等しいほど震えながら、泣き出した。今度こそそれは、一度も見たことのなかった、紛れもない号泣だった。

すまない……っ。

誰ともなく謝罪しながらも、血塗られた刀を手放しはしなかった。
そこでヒナタは気がつく。彼はその血を懼れている。今すぐこの地から離れてしまいたいのに、彼は逃げられないのだ。口の中で、懺悔なのか祈りなのかよくわからない言葉を唱える彼が立ち上がった。



(俺は約束を守る)  
それも、貴女への約束ならば



一生分の涙をここで流すというのか。
流れるままの雫で刀を潤しながら、ゆっくりと彼は歩み寄る。
幽霊のような、殉教者のような、墓守のような。
直刀が翳されるのを見ながら、ヒナタの心は絶叫する。―――出来ない。貴方はそれを出来ない!


夕暮れの葬送に花を捧げます
貴方の思い出を歌に乗せて空に還します
花よ、散ってしまった花よ
今取り残された私達が水を流します
流す残花と共に私達の温かい家へと帰りましょう


不意に、夢と現在の狭間に歌が流れ込んできた。聞いた声ではないが、優しい声だった。
聞くともなく聞きながら、ヒナタは刀が落ちる乾いた音を聞いた。
幾度となく拾い、自分にそれを向けながら、どうしても刺せない彼。
―――多分、麒麟の本性を一番悔しく思っているのは彼。

歌は続く。あの時の鎮魂歌だと、しばらく経って分かった。


朝焼けの墓守は追想を捧げます
貴方が生きた場所を詩に吟じて空に還します
君へ、いなくなってしまった君へ


「………っ!」
今度こそ夢ではなかった。
ヒナタが跳ね起きた刹那にも歌は続いている。彼の声ではない、それはすぐにわかった。

(誰が?)
仙である以上、言葉は自動的に翻訳されている。だが、どこか異国にいる印象を受けていた。
この歌にはそれがない。向こうの言葉で静かに歌われている。懐かしかった。


今取り残された私達は盟約を結びます
結ぶ由縁を目印に、貴方を私達の家へ帰しましょう………


この歌を自分は知らない。だが、この歌は二部作なのだ。
自分が知るのはこの裏側の歌。静かな鎮魂歌の裏側にある死者からの歌。
ようやく、死者の歌が宗家に口伝され、追憶の歌が分家に口伝されていた理由がわかったような気がした。
彼は笑える死者など家にはいないと言っていた。
遠い国に飛ばされ、ようやくそれがわかったのが情けなかった。

仲間たちを起こさぬよう気を配りつつ、ヒナタは納屋から滑り出る。
空気は夏であるというのにひんやりと心地よく、自然とそれを吸い込むと忘れていた歌詞が浮かんでくる。何気なく口ずさむ。裏と表の歌が波紋を描きながら朝焼けに消えてゆく。
歌声は夢で聞いたよりは近く、すぐに辿り着けそうだった。