残 
五章 邂

三、


(村人では手に負えないはずだ……)

ヒナタは薄く唇を噛む。
疑問には思っていたのだ。サスケが目に留めるほどの冬器を持つ村が人妖一匹に翻弄されるとはおかしいと。それなりに強者に見える者もいた。被害状況を考えれば危険を冒してでも討伐していたはずなのだ。
つまり、歯が立たない。下手に逆らえば村ごと潰されかねない。
だから、ある程度の被害なら目を瞑っていた方がましだと思ったのだろう。

これが、王のない国の現状。現在唯一の夏の同胞の姿。


ぎぃっと爪と剣が嫌な軋みを発する。
無理せず一度体制を直そうとしているのに全く動かない。強い。

「気をつけろ」

力なく押し殺された声にヒナタは少なからず動揺した。一体何が、そう神経が背後に向いたのは一瞬だったが、妖魔には充分すぎる時間だった。


「………くっ、」
剣を弾き飛ばされた。
自分が力を抜いた方向に剣を払う辺りが憎たらしい。
ヒナタは暗闇を切る白銀の軌跡が真っ直ぐにネジの元に向かっているのを見てしまう。


そうして、こうまでしても彼は呆然と剣が自分に向かって落ちてくるのを見ているだけなのだ!


ぞっとした。
だが、グロテスクな精神変化よりは反射の方が早かった。正面からネジを背中で庇いながら突き飛ばす。その時落下してきた剣が後ろ向きになっていたヒナタの右腕を浅く切ったが彼女は気がつかない。妖魔が目の前にいた。笑っているように見えた。

足首を掴まれ、引き倒される。
首を狙った――決まれば仙であるヒナタでも即死であったであろう攻撃対処に彼女が反射的に選んだのは、腰に下げていた短刀ではなく、一本だけこちらに持ってきた使い慣れたクナイだった。
笑いの形に引き攣った口腔から這う生臭い臭いが顔にかかる。
じっとりと顔を濡らし始めたのは脂汗。ぴしりと砕け始めたのはクナイ。


その時だった。
上空から別の妖魔が嘴を光らし、急降下してきた。轟宇だ。

(狙いはこの妖魔、一緒に刺される)

だが気を抜けば喉をやられる。人妖は気がついていない。このままでは……!


「轟宇!止めろ!」


刹那、ネジのほとんど悲鳴のような叫びに、妖鳥はぎりぎりの所で軌道を変えた。
さすがに人妖も気がついた。僅かな動揺を見逃さず、ヒナタはチャクラを篭めた渾身の蹴りで妖魔の下から這い出る。
間を置かず、短刀を抜き放ち妖魔の上にのしかかる。
そして手は鋭角を描き、真っ直ぐと首筋に刃をめり込ませていった―――



断末魔の叫びを聞きながら、ヒナタは黙々と作業を続ける。
人妖の口から人間の言葉でうめきが零れるが、動揺するほどの神経は残っていない。
妖魔ではなく見かけだけは人の首を切る作業。麻痺するほどやってきた。

最後の筋を切り、顔にかかった大量の返り血を拭いながらヒナタはようやく振り返る。



…………あの時、みすみす彼が消えるのを見送ってから、この日をどれだけ待っただろう。
ネジ兄さんの口癖だった「何故」。
どうして、父の死の原因である貴女が、ここにくるのかと胸に突き刺さっていた疑問。

でも、私だって何故と言いたかった。
私こそ分家に生まれたかった。………ネジ兄さんに、嫌われたくなかった。


何故。
忘れないために。
そこから、何かを諦めない足枷として覚えておくために。


(ヒナタ、そんな死人の目すんなってばよ。壁があるからおもしろいと思え!)
(……それが血脈でも?)
(ああ、越えられない壁なんかない。根性さえ、あればな)


「ネジ兄さん……」

ぽたぽたと指先から暗褐色の濁液が流れ、血の道を作る。
伸ばした手は届かなかった手への清算の願いでもあった。


「………近づく、な」



血が、垂れる。

妖魔の血、が。


生き物の血、が。



「血で汚れたまま、俺に近づくなと言っている!!」



絶叫。
そのまま足をもつれさせたかと思うと、ネジは半ば転ぶように後ろの木に背中を預けてしまう。
荒い呼吸、額に滲むのは脂汗。ヒナタはネジのこのような苦痛に歪む表情を見たことはなかった。
ネジが反射的に身を引いた瞬間、木に布が引っかかる。


輝く金色の髪が鮮やかな幕として、風に流れる。


「その髪……」

この世界で、唯一麒麟だけが持つという金色の髪。
王を選ぶために生を受け、民意を具現する慈愛を持つ孤高の神獣。


夏の国を愛するナルトに助けられ、身近に新王への願いを見ている彼女にとってこれ以上の壁などなかった。ネジは静かに顔を上げる。
冷艶に言葉を紡いだ。



「俺は貴女など覚えていない。夏の麒麟――珂麒を気安く呼ばないでもらおう」



この世の全ては紙一重。
全てが一枚の小さな紙に薄っすらとかかれている一つの絵.裏と表の綺麗な絵。
この世の全ては嘘であり。この世の嘘は真実から出来ている。
憎しみを叫ぶのは愛を叫ぶのと同義であり、憐れみを叫ぶのは憧れを叫ぶのと同義である。表は裏に焦がれる。逆もまた然り。正義だとか悪だとか。それらは全て恋人のなれの果て。

彼を憎みきれたとしてもしかしそれは彼をまた永遠に愛しつづけるという呪縛に絡め取られたのと同じで、それに気がつかないのが優しい恋人、でもある世界はもともと一つで物語を構成できるほど完成されず、世界に付随するあらゆる感情、及び事象は誰かの祈りと葬送曲の中に希望を封じ込めた巨大な舞曲の一端でしかない。


和紙で鶴を折りましょう。
夕焼け色の、微笑む鶴を一つ一つ丁寧に折ってゆきましょう。
ひたすらに折りつづけたその先に、二つの鶴が残ります。

表の和紙で折られた鶴を愛しましょう。
裏の和紙で折られた鶴を流しましょう。

愛する人を抱擁し、憎むべき人を放逐しましょう。
愛する人を籠に入れ、憎い人には自由を与えます。

放逐の先には荒野。
荒野で愛した花をつみましょう。
そして花を花束に致しましょう。
愛する花を死の彫刻に。目にとまらぬ花に生の苦しみを。

さあ残った花は愛します。
太陽を愛して燃え尽きます。月を愛して凍りつきます。

世界は全て一つのお伽草子。
表と裏の可愛いお伽草子です。