残 
五章 邂

二、


(……もう、限界だ)

吐き気を故意に無視し、無理やり足を進めてきたが、どうやらこの辺りが限度らしい。
虚ろな目で首を鋭く切断された妖魔の死体を眺めながら、ネジの足は一歩一歩後ずさっていた。
木に背を預けながら、円心状に歪み始めた視界と戦いながら必死に震えを止めようとするが叶わない。

嗅覚全体が死臭だけで塗りつぶされ、血の海に無理やり顔をつけられた感覚。
気持ちが悪い。ぞっとする空気の冷たさに全身を切られる偽の音に翻弄され、身体を穢れに侵食されていると感じる―――この、麒麟特有の檻。

「……芙、庸」

もういい、少し遠回りになるがいつもの場所で転変して帰るぞ。
そう言うつもりで、ネジは芙庸を呼んだ。だが、それよりも嫌な死臭が濃くなるのをを感じる方が速かった。



おおぃ―――おおおい



(ネジ兄さん、見えてないの!?)

その音は聞こえているのだろう。きょろきょろと辺りを見回しているのは見える。
だが、妖魔は貴方のすぐ後方、木三本を挟んだ位置に潜んでいるのだ。人妖特有の叫び。あれこそ、ヒナタが依頼を受けた妖魔だ。

そろり、と気配を立てずにそれが彼への距離を詰める――――



(珂麒!背後に妖魔が!)

上空を旋回していた轟宇もまた、冷水を浴びていた。
遁行したままの芙庸が現れない事を見ると、どこかにあの妖魔よりも強い気配があるのだろう。遁行系の使令はある程度気配の強弱で状況を判断するしかない。それが仇になっている。

どんよりとした夜色の空。
轟宇は妖魔の中ではかなり目がいい部類に入る。だが、この距離では主は金色、妖魔は黒い物体としか認識できない。
懸命に距離を測りながら、急降下する。

(………珂麒!)

―――間に合わない。
普段の主なら、こう呼べば答えてくれる。……死臭にやられているのか。


もともと、声を出す器官など持ち合わせていないが、ひゅうと笛の音のような悲鳴が迸る。
まさにその瞬間だった。

主に振り下ろされようとしていた爪を横合いから伸びた剣が受けとめたのは。




キン、と澄んだ音が鳴る。
突き飛ばされよろけながらも、ネジは自分を庇った剣士の後姿を凝視する。

―――ネジ兄さん、下がって!」

彼女は淡紫の髪、忘れもしない横顔で、大振りの冬器を扱い、まっすぐに立っていた。
甲冑もなく、機能性だけを重視したと思われる黒服に夏の文字が唯一輝く。禁軍将軍の証であることは、ネジの眼から見ても明確すぎた。


途方もなく屈辱だと思った。
あの弱かった彼女の後ろにいながら、血の匂いにすら勝てない自分が。
対抗してやりたいと強く望みながら、力を抜けば倒れてしまいそうな自分になってしまったことが。


(ああ………)


俺は、いつかヒナタ様を殺してやりたかった。
日向最後の一人として、彼女の血で滅亡に花を添えてやりたいと思っていたのだと思い出した。
では今は?



桜があった。
肌触りのよい木綿の着物。
何度も転びそうになった草履。
過去には人を憐れむ彼女がいた。
俺も……そうなりたかった?



それは、すでに麒麟としての心を超えていた。
憎悪よりも更に強い気持ちがネジの中に渦巻く。久方ぶりの波の音だ。
昔聞いた時は苦悩する波だった。今は切るように冷たい波の音が響く。


(どうして、貴女が生きているのか)


憎悪、劣等感、嫉妬――それを全て内包する憧憬。
こんなにも強い気持ちを感じるのは生まれて初めてだった。彼女に全ての感情が起因してしまう。
何故、あんな人が。貴女さえいなければ。

本気で、あの人が住む夏など滅びてしまえと思った。


◇ ◆ ◇


麒麟は血を疎う。
時には血の穢れにより病むことすらあり、故に王の命でないかぎり自ら剣を持ち戦う事は出来ない。
それに代わるものが使令。

ネジがその白さに憧れたヒナタはひたすら血の道を進む。
ヒナタがその強さに憧れたネジはひたすら白い道を進む。