残 
五章 邂

一、


(まさか……)

情けないことに、それしか頭の中で文字列にならなかった。
集まった他の男達は情報収集に追われ、特にヒナタの変化に気がついてはいなかった。もっとも、先ほどにはほとんどいなかった村人達は全員が興奮状態でかなりの時間はかかりそうだ。

(でも、あの横顔は…………)

その明るい村から逃げ去るように飛び出し、ヒナタ達が妖魔狩りを完遂した雑木林に入っていった細い影。
細身だが鍛えられ、すっきり伸びた背筋。頭を白布を巻いているので髪は見えないが、悲痛に歪んだ頬、前を見ながらも何処か諦めた光を宿す"白い目"。
見間違うはずもなかった。たとえ、彼が絶対此処にはいない者だと分かっていても。
それほどの強烈な存在感を持つ彼がヒナタの中にはいた。

おそらくは、異国へ連れ去られる刹那となっても彼女を許さなかった彼に対する贖罪であり―――再び彼の笑顔を見たいというささやかな思慕であったのだろう。


―――確かめなければ。


あんな人を私は他に知らない。
ここに来て初めて感じる向こうへの濃厚な郷愁の香りが立ち込める。知らずに懐中に手を入れ、肌身は離さず持っていたものに触れる。

もうヒナタは他の何も見ていなかった。
悲しげに消えていく儚い背中、それは従兄の後姿に他ならない…………


………
……



久しぶりにこうやって走る。
木々に引っ掛けないよう、腰の剣に気を使いながら、夜の帳が下りた雑木林をかける―――忍としての走りをするのは本当に久しぶりだった。
ヒナタの眼には従兄の姿が映っている。やはり、どの角度から見ても彼以外ではない。
後はあの流れる黒髪があれば確証が高くなるのだが、今はそれを言っても仕方がなかった。

(ただ走っているだけなのに、速い)

体重を感じさせない流麗な走りでありながら、彼は速い。なんとか、忍としての実践経験がものを言っているのか、少しずつ距離は縮まっている。だが、ヒナタはその事実に落胆した。
強くなろうと思っていた。無事、キバやシノに置いていかれずに中忍になれた時嬉しかった。
それでも、隊ではいつも足手まとい。崖から落ちた時だって、偶然こちらへの道を越えなかったら、間違いなくあそこで果てていた。
やはり、彼との距離はあの日から全く縮まらない。
ついには下忍になれなかった彼。謎だけを残して消えてしまった彼。
ヒナタの中に建っていた彼の墓標が崩れる音が響く。波の音が混ざっていた。

(………止まった……?)

おそらく、彼は里から離れなかったのに違いない。
どの角度からも、村人に見られない位置を模索していたように見える。一体何のためにとは考えない。今はもう彼に追いつくだけ。
急がないと、不意に彼がここから消えてしまうような気すらする。


遠目に彼は震えていた。
走りを止め、よろよろと纏わりつく気配を祓うように手を回す。

(どうしたの………"ネジ兄さん")

怯えるのとはまた違う―――心の底から、何かを忌んでいるような、その行動。

ヒナタはそれがどうしてか知りようもなかった。
今、彼が立ち尽くす場は先ほどヒナタが妖魔を狩った場所。それも死体を放置して、辺りに妖魔がいるか確かめるための罠を張っていた場所だった。


◇ ◆ ◇


「血の穢れがあるな………芙庸」
(御意)

使令が遁行したのをネジは静かに見る。
最初は小さな不快、徐々に歩むうちに強い吐き気へと変わる―――血への忌み。
麒麟の属性だと言われ、そうではないと信じながら、他でもない事実。

だが、ネジは雑木林を進むしかない。
進みながらたった一つの場所を探しているのだ。蓬山に帰るため、転変出来るその場所を。

彼はシカマルのように何処でも転変出来るわけではない。
泰麒も相当苦戦したと言われている転変は個体差が大きい。切迫した危機の場合だけはほとんどの麒麟が同じだが、他は状況を自分で生み出すしかない。
ネジの場合、それは風景だった。
実はその風景もわかっている。
崖から町を見下ろせる場所、それがネジの転変の場所だった。

(珂麒。すぐ近くに妖魔の死体が……人間が狩っているようですが)
「それで、この腐臭か。人はいるのか?」
(いえ。しかし、後方から急速に接近する者があります。女です)
「女?……何かに追われているのか」

そうならば、助けなくてはいけないと考えるようになったのは、ここに来て一ヶ月の頃だ。

(……珂麒。おそらく、御身が追われています。女はおそらく何処かの将軍、不思議な白い目で辺りを見透かしているようです)

「白い目だと………?」
こちらの世界の博学には自信がない。だが、今までこの世界で白い目は見たことがなかった。
白い目―――そんなものは一つしか知らなかった。

「………特に案じることはないだろう。最悪足止めをしろ。その前に転変してしまえばいいことだ」
(御意)
「轟宇。いるな?」
(ここに)
「女に気取られないよう上空から状況を把握しろ」
(仰せのままに)
「芙庸、轟宇。―――何があっても女を殺すな」



(まさか、あの人がいるはずはない。ぎりぎり下忍になって、スリーマンセルで足手まといになることを気に病んで、医療班かアカデミーの教師の道を歩んでいるに違いない……)



追いつける。
ヒナタはそう冷静に呟く声を聞く。理由はわからないといえども彼のスピードが落ちたのが幸いだった。出来れば、正面から近づきたい。警戒心なのか、悪戯心なのか定かではないが、ヒナタはひっそりと気配を消しながら歩く。走りと同様懐かしい感覚だった。これで、彼が"彼"であることがわかったら、失った物は全て帰ってくるような気すらする。

―――そう、感覚を忍のそれに限りなく近づけてしまったゆえ。

芙庸はヒナタの気配を見失い、ヒナタは上空から何者かに見られていることに気がつく。
同時に、辺りの匂いを無意識に嗅ぐ。……獣の匂い。


ヒナタ、轟宇―――二者が全く同じものに気がつき、それが邂逅の始まりを告げた。