四章 殉教 四、 ほとんど風の速さで黄海上空を駆け抜けたシカマルは雑木林で一度転変を解いた。 ネジからもぎ取るようにして再び服を身につけ、何処にしまっていたのか白い布で髪を包み込む。 言われるままに布を髪に結びながら、ネジはこの場所を考えた。 方角的には間違いなくシカマルの国――孤国。おそらく国境付近であろう。 その間にもシカマルは駆け出しており、それを追いながらネジは行く先にぼんやりとした光を見た。村の光、それも滅びかけた国の必死に足掻く切ない光だった。 息せき切って村に飛び込んできた二人に気を止める者はいなかった。 だが、よく見れば服装が豪華すぎる。 まさかこのまま何処かの店にでも飛び込む気じゃないだろうな、と思う。 そのまさかなのだが、その時のネジはシカマルに追いつくので必死だった。 ……恐ろしく速い。 普段なら歩くのもかなりめんどくさがる彼が最低限の動きで最高の速さをたたき出しながら走っている。 何か背筋に薄ら寒いものを感じながら、一瞬足元に落としていた視線を前の背中に戻すとシカマルは既に村で唯一明かりがついている店の扉の中に消えようとしていた。 「シカ………!」 叫び、彼を押し留めようとしたネジはシカマルの横顔を見てしまった。 それも一瞬だけ諦めたように目を閉じた、酷く殉教的な表情を浮かべた表情を。 ◇ ◆ ◇ 薄暗い店の中は意外にもかなりの人で溢れていた。 不安定な社会ゆえ、食事を取っている者はいないが、ざっと見回したところ全員に酒は行き渡っているようだ。 どうやら、この村は酒の生産の村であるらしい。 糧食は乏しくとも、体力を維持するために静かに杯を酌み交わす姿が物悲しかった。 「ネジ。いいか、この後騒ぎが起こったら、すぐにここを出て戻れ。ここに珂麒がいることを悟られちゃなんねえ。正直この後どうなるか俺にも予想がつかない」 「………わかった。他には」 「きっといつかお前もこうなる。俺達には誤りはあっても正解はない。だけど、忘れんな」 「………」 「なりたい自分になれよ、ネジ。お前は麒麟である前に日向ネジって奴なんだからよ」 ネジは去り行く友の後姿をただ見つめる。 訣別というのではない。会おうと思えばいつでも会える。 シカマルが先に歩いていたことを強く知っただけだ。 ただ、曖昧だが彼が遠くに行ってしまったことだけは分かった。 シカマルはあっさりと布を取り出し、金髪をなびかせながら堂々と店の奥へと進んでいく。 一人、また二人と彼に気がつき、ざわめきが広がっていく。 押し殺した波を気にとめない仕草で彼は歩く。 暗い店内で酒を酌んでいた、その鮮やかな人物に向かって。 「……テマリ、お前!」 「おい……」 周囲の視線を一身に受け、彼女はまっすぐに顔を上げた。 金髪と見間違うかという黄色の明るい髪。芯の強さを思わせる鋭い視線。 「ようやく、見つけた………」 シカマルの手――いや、全身は震えていた。 言葉にすら表せず、彼は跪く。ようやく………輝かしい王気を持つ者を見つけた。 万感の思いを篭めて、国を頼むと願いながら、彼女の目を見る。 「お前、それなりに見る目があるじゃないか。―――まかせろ」 にっと笑うテマリの顔が頼もしくて、ようやくシカマルは笑いながら口を開いた。 孤王万歳、胡麒万歳。 村中の歓声を背中に受けながら、ネジは一人で去ってゆく。 跪いたシカマル。それが泣きそうだったのか笑っていたのか、ネジには見分けがつかなかった。 居たたまれなくなり、足早に駆けていく彼の横顔を、彼女が見ていたのだ。 静かな諦めだけが、自分が唯一持っていたものなのかもしれないと賢者は思った。諦めという名の自分への免罪符があった。そういえば、聖者を嘲笑った事があったなと賢者は独白する。偶像を仰ぎ、贖罪に溺れ、最期には自分で自分を許すしかない殉教者。気楽なものだと思っていた。どのような道を選ぼうとも、辿り着く先が殉じることだとしたら、誰でも同じで、それでいて誰もが救われたと思い込める幸せな道だから。 それでも、彼らですら持ったいた。目的を。自分を構成する要素を。 崩れ落ちる鏡の中に歩く亡霊。彼らは何も見ず、そして静かに笑っている。そう、彼らはわかっていた。滅びる事こそ至上の幸福。崩壊の瓦礫、割れる平面鏡に映る世界は鏡が割れることにより均整をとりもどし、その中で硝子の破片に顔を潰されたはずの彼は幸福な笑顔を浮かべる。彼らこそ、殉教者であると同時にこの世で最も幸福を求める巡礼者だった。 愚者は自分、だが……。 賢者は悩む。見上げた空は蒼穹の中に自分に突き刺さるであろう刃に満ちていた。 正しいのか正しくないのか。間違っているのか間違っていないのか。 答えを出すのが愚かなのか、流されるのが幸福なのか。 孤独な賢者に手を差し伸べましょう。彼は世界そのものだから。 愚かな愚者を導いてあげましょう。彼らが世界を蹂躙するから。 さあ、誰でもいいから手を取って。 最後に残るのは誰? |