残 
四章 

二、


首筋に夜露が触れ、一段とひんやりした空気に包まれたような気がする。
ごろりと仰向けに寝転びながら眺める空。いまいる庭園は季節を感じさせないが、空は自然体のままだ。夏の空、少しずつ夕闇に侵食されながら、淡い紫色と桃色の絵の具を静かに溶かし込んでいるように明るい。
きっと、このように飾らない存在であるから、隣の男は空が好きなのだろうとネジは思った。


シカマルは黙ったままだが、目は俺と同じように真剣に空を眺めている。
平面的に歪む空に浮かぶであろう一番星を先に見つけるのが目的だ。負けた方が女仙達が用意してくれる夕食をくすねてくる約束になっているのだ。
二人は夜の涼しい空気に埋もれながら、仰向けになりながら夜空を見るのが好きだった。
その横の友として、何かつまめる物をという考えなのだが、当然のように行儀の悪いと叱られ素直には食事を提供してはくれない。

(なんて様だ……)

苦笑しながらも、微かな輝きを見つけるたびに目を凝らす自分がおかしかった。



虚海の向こうに蓬莱――俺の故郷があるのだそうだ。
二つの世界は相容れないものだが、その実一つに繋がった場に過ぎないとも人は言い合う。
現に虚海を越え、向こうの世界に行ける者がいる。まず、高位の仙。妖魔。そして、麒麟。

シカマルはよく一日の勤めが終わると街に繰り出す。麒麟しか持たないという金髪を薄汚れた布で隠し、民衆の服を着て、あてもなく歩いていく。
彼の中で行き先は十二国だけに留まらず、蓬莱や崑崙も行動範囲内だ。
向こうにもおもしろいものは沢山あると言っていたが、おそらくは向こうにいるかもしれない王を探しているのだろう。
じゃあ、俺ともすれ違っているかもしれないなと言ったら、そんなふてぶてしい面を見たら忘れねぇよと言われ、言い合いになったこともあった。


―――俺は一度だって行ったことはない。




空は続いているのだろうか、あの国に。
昔の仲間達、一族の者もこの空を見上げているのか。



………



「………あ」

ネジの白い手が真っ直ぐに北東の空に浮かぶ星を指差す。

よく見ていないと見逃してしまいそうな控えめな光。
どうしてか、その光が懐かしくて幾分弾んだ声で隣に声をかける。一番星だ、と。
いつもなら、シカマルがめんどくせーと突っ伏す―――そんな光景が見られるはずだった。


「シカマル?」


一体その表情をどう形容する事ができるだろう。
中空のある一点だけを凝視したまま、石膏のように固まった冷たい表情。
恐れに歪み、諦めにも似た静けさを内包しながら、全身で快哉を叫ぶような。まるで、帰ってはいけない自分の家に辿り着いた、そんな暗喩を感じさせる。


「………ネジ、ついて来てくれ。転変する」
「おい!」


奇妙に見開かれた目をそのままに呟いたと思ったら、ネジの驚きなどさして気にもとめず、シカマルは髪を結わえていた紐を手にかける。
毎日きつく結わえられているはずなのに、紐を取り外された瞬間、金髪が鮮やかに夜闇に流れた。
何が何だかわからぬ間にネジはその両手にシカマルが脱ぎ去った服を抱える。

緩やかに身体の輪郭が歪んだと思ったら、それはすぐだった。
人間の身体に押さえ込まれていた麒麟としての本性が爆発し、獣が姿を表すのは。

「乗れ」

普段の彼に似合わぬ性急ながら断固とした声に後押しされ、ネジが背中に座ると間を空けず、シカマルは地を蹴る。急激に上昇し、庭が小さな箱庭に変わるのにたいした時間はかからない。

「どうした、シカマル!お前らしくない」
「……いいから」

押し殺した声を発するシカマルには余裕など何処にもなかった。
盲目。事実、彼はたった一つの光に目をやられ、盲目同然に突き進むしかなかったのだ。




展開に混乱しながら、シカマルが見ていた辺りの空をネジは振り返る。
鮮やかな一等星が、先ほどネジが見つけた控えめな星の横に残酷なほど燦然と輝いていた。