残 
一章 細の祈り

一、

女達は俯いている。崖の下の湿気に全身を打たれ、腐臭の漂う我が身を眺めながら。
その腐臭は考える事を放棄し、理念を捨てたのものから湧き上がる物だ。
虚海の凪はいつもと変わらず穏やかだが、海岸線に聳える里木の近くから離れれば終わりだと、その中の誰もが分かっている。里木は二本。手を伸ばせば、海につかる。里木は生える場所を選ばない。
女達は三人ずつ木の下に座り、手を海水につけていた。鮮やかな着物が黒い水につかる。
黒でありながら、水は澄み切っている。肉眼で見える位置に蠢く妖魔の姿を映し出せるほどに。

水の中の妖魔は、人間が一歩でも海に入ればそれを引きずり込もうと狙う。
空の妖魔はここにはいないが、毎日のように村を襲う。
そして水の中の妖魔が力尽き、浮かべば、空の妖魔がそれを喰らい、空の妖魔が落ちれば、水の中の妖魔がそれを貪る。
彼らにしてみれば、狩る人間が減りすぎているのだ。
抵抗らしい抵抗などする者も無いのに、日増しに飢える。

十二国の中でも、虚海に浮かぶ島国。
援助も期待できず、海に漕ぎ出せば妖魔に喰われる。人民の気力はなく、連鎖的に妖魔も飢える。


(……王がいるというのに)


王座についているだけで、妖魔の出現を押さえ、天災を防ぐ王がこの国にはまだいる。
では、彼がこのまま崩御したらこの国はどうなる……?
台輔が病に臥せられてから、早一年。もう助かると思っている者など誰もいない。
だが、王はそれすら顧みず国を荒らす。一日に一つの村が必ず滅ぶ。焼かれる事も無い骸が、また毎日のように遠征に出される兵士の嘆きが、そして嘆きすら忘れた庶民の空疎な体が散乱していく。

……一体いつまでこんなことが。


花町になった私達の村。

生き残るために、少女から老女までが遊女に身を落とし、果ては男達までが男娼となった私たちの村。とっくに滅んでいるはずを、遠征した来た軍を誘惑し、どうにか毎日を繋いでいる。
毎日のように梅毒で人が死んでいき、この海岸に捨てる。妖魔に餌を与え、少しでも被害を減らすために。捨てる前に服を剥ぎ、虚海の水で洗い、次の者に渡していく。

王師が出てきたら終わりだ。わかってはいる。
でも、誰も止めようとは言わない。人も飢えている。この状況を利用しないことはないから。
だが……。
次の龍旗が上がる日まで、いや、新王登極の日までに持つというのだろうか。


不意に、村の辺りがざわつき、女は思考を止めた。
妖魔が出たくらいでは、誰も騒がない。おかしい、一体何があった。
周りの女達も気がつき、次々に指さす。位置が定まらないほどに震えた指で。目に映るもの全てが煤に塗れ、やつれている中で燦然と輝くそれを。

女はそれが自分の悲鳴だとは気がつかなかった。
その恐ろしいまでに空に立ち上った叫びが、まさか自分の喉から漏れた物だとは。



――――空行師!!」






同年、夏王、珂麟崩御。
人伝えに、蓬山に珂果の存在を聞く。
触有り。
蓬莱、崑崙のいずれか。珂果は虚海を越えてしまったと人々は言い合う。

首の皮一枚で繋がっている、この国を置き去りにして―――





◇ ◆ ◇



砂利を踏み鳴らす音と、密やかな話し声が日向家の春を彩る。
道は跪く分家と、その道の間を通る宗家で綺麗に分割されている。彼らの服は一様に儀礼用の着物で、目に映る人という人は皆同じ目だった。
日向一族は毎年、この桜が満開に色づく頃、一族の繁栄を願う儀礼を行うのだ。


彼は耐えていた。
宗家と宴の祝い客としての祭司達が通る、永遠に続くかのような行列が通り過ぎ、宗家の門を通り過ぎるのを。それこそ、歯を食いしばってひたすらに耐えている。


立て。跪いてはならない。


日向の庭は一種の異空間だ。梅と桜が共に調和し、二種類の香りと花弁が彼を包む。
彼はこの香りが好きだった。

この香りを嗅ぎながら、庭で昼寝をしていると何処か優しい世界に行ける。

そこでは、分家も宗家もなく、ただ皆が花を愛でている世界。
夢にまで見た、父と当主が一介の兄弟として笑いあっている庭園。自分は母にこっそり甘酒を飲ませてもらい、あの子を探しに行くのだ。
落ちていた二つの花枝を大切に抱え、今日はあの子にどうやって話し掛けようか考えている。

現実では、たった一度話しただけのあの子に、惜しみなく笑える自分がいる。
おどおどした様子は変わらないが、はにかんだように笑ってくれるあの子がいる。



儚い夢に、今とはあまりにも違うと彼――日向ネジは自嘲しようとした。
しかし、一瞬の心の緩みで無理やり押さえていた吐き気と不快感がせり上がり、反射的に立ち上がりそうになった自分が姿を現した。

彼は再び歯を強く食いしばり、砂利に自らの足を縫い付けるように太腿に置いた手に力を篭める。
血が出て至って構わない。この奇妙な衝動を押さえられるのなら、この程度の痛みは安い物だ。


立ってはならない。


体中が、理由のわからない義務感を背負った本能とも呼べるものが、それを叫んでいたとしても。
分家は立ってはならない。これ以上父と当主に溝を作って欲しくない。自分のせいで父が苦しむくらいなら、このままずっと死ぬまで耐える。

ネジの中で、包帯の下に刻まれた呪印と本能がせめぎ合う。
その音は何処か別の世界の波の音に似ている。