Essay
日々の雑文


 75   20111215★映画解題『シベールの日曜日』
更新日時:
2011/12/20 

20111215
 
 
『シベールの日曜日』の謎
 
……人生を変える魔法の映画に隠された“シベール・コード”を読み解く。
 
 
 
●埋もれた真意
映画『シベールの日曜日』、監督・脚本セルジュ・ブールギニョン、1962年作品。アカデミー外国映画最優秀作品賞受賞。日本公開は63年。DVDになっていますから、ストーリーの紹介は省きます。未見の方は、理屈抜きでとにかく一度ご覧になって下さい。
公開後半世紀になろうとする、古めいた、モノクロの映画です。
しかし、実写映画のジャンルで、全時代にわたる世界最高の特別な一作を選ぶとすれば、私は迷わずこの『シベールの日曜日』を推します。二番手以下には『市民ケーン』、『メトロポリス』『カサブランカ』と『大列車作戦』、あるいは『キューポラのある街』(『シベールの日曜日』とほぼ同時期)や『二十四の瞳』が並ぶかな……。
 
【ご注意】本稿は必ず『シベールの日曜日』の本編をご覧になってからお読み下さい。
 
では『シベールの日曜日』はどのように素晴らしいのでしょう。
街の駅で出会った、孤独なふたつの魂の交わりと、無垢な純愛の美しさ。
モノクロなのにカラーを超えた清らかさを感じさせる静謐な風景。
あるいは、設定年齢十一歳のローティーン美少女と中年ロリコン男の禁断の愛?
逆に言えば、妖しい美少女が純な青年をあの手この手で愛の蟻地獄へ篭絡させる話?
そう考える向きもおありでしょう。三十年ほど昔、この作品はアニメファンの間でロリコン映画の代表格のように評価されていました。見ようによってはそう受け取ることもできるのでしょうが、『ロリータ』(1962夏公開)という本家本元の作品がある以上、ブールギニョン監督の真意がロリコンを極めることにあったとみるのは、いささか一面的に過ぎるかと思います。
 
それでは、ブールギニョン監督の真意は、どこにあったのでしようか?
どことなく、気になってきます。もしかするとこの作品の背後には、言葉やセリフで説明されていない深い意図が埋もれているのではないか? 
そんなことを考えながら、久方ぶりに、『映画芸術』昭和38年七月号に掲載された『シベールの日曜日』シナリオを読み返してみました。すると……
これはどうも不自然ではないかと、引っ掛かる場面が出てきたのです。
 
●風見鶏と十字架の謎
それは物語のラスト近く、少女フランソワーズから「私の名前はシベール」と明かされたピエールが、クリスマス・イブの宵闇にまぎれて教会の尖塔(鐘楼)の頂に昇り、風見鶏を取り外すシーンです。
あれっ? と思いました。ここはキリスト教の教会。なのに、風見鶏?
一般的に教会の尖塔のてっぺんにあるのは、風見鶏ではなくて、十字架ですね。教会の尖塔が建てられた当時、それは地域で最も背の高い建築物であり、したがって、天にまします神に最も近い尖塔の先端には、キリスト教のシンボルである十字架が置かれて、天上の神と地上の人類をつなぐ接続装置、あるいは神の声をキャッチする通信アンテナのような役割を担っていたのではないかと思います。しかし作品中の尖塔にあるのは、まぎれもなく風見鶏。
では、十字架はどこに行ったのでしょう? そもそも、教会の尖塔(鐘楼)の先端にあるのが風見鶏だけで、十字架が無い……というケースは、あったとしても例外的でしょう。「十字架抜き・風見鶏だけ」の教会建築というのは、やはり大事なものが欠けているという印象がぬぐえません。
ということは、このヴィル・ダブレーの教会の尖塔の頂には、十字架と風見鶏の両方が設置されていた……と考えるのが妥当でしょう。実際にDVDを見て確かめてみたところ、十字架はありました。ただし、十字架の全体像は画面には映らず、風見鶏を外す作業をしているピエールが金属の横棒の上に両足を置いているカットが一ヶ所だけ。どうやらこの尖塔では、十字架の縦棒の上に風見鶏が取り付けられていて、ピエールはなんと聖なる十字架の横木を土足で踏み付けて風見鶏を掠奪したということになるのです。
 
まるで鎖国ニッポンで行なわれた「踏み絵」そのままに、神へのとんでもない冒涜を犯しているに違いないピエール君! ああ、キリスト教徒にあるまじき背信の愚行。なんというバチ当たりな……と呆れる前に、もうひとつ重要なことを考えてみましょう。
この作品の作り手であるブールギニョン監督の立場から、この場面をながめてみるとどうでしょうか。
少女フランソワーズ(シベール)がただの風見鶏を欲しがっているのなら、作品の設定上、それをわざわざ教会の尖塔の上に置かなくてもいいはずです。たとえば市庁舎や古城、図書館や博物館といった公共施設の搭状建築物の上に風見鶏があって、それを欲しがったとしても、ストーリー上、不自然な展開ではありません。そうすれば、ピエール君が十字架を踏んづけるという、教会に対してはなはだ失礼な行為を避けることができる、というメリットもあるのですが、しかし……
それでも、この作品は、“教会の尖塔の上の風見鶏”にこだわりました。ということは、少女シベールの“欲しいものターゲット”のトップになっているのは、市庁舎や博物館の風見鶏ではなくて、“教会の尖塔の上の風見鶏”でなくてはならなかった……と考えられるのです。
とすると、ブールギニョン監督は、わざと、意図的に、ピエールが教会の塔頂の十字架を土足で踏みつけることを百も承知で、風見鶏をこの場所に置いたことになります。
なぜでしょう?
 
調べてみると、教会建築に風見鶏を設置するのは奇妙なことではなく、中世以降、教会のある街や村を魔物たちの災いから守る“魔除け”として、領主が設置させたケースが多々あるそうです。ですからこの映画のヴィル・ダブレーの教会にみるように、十字架の縦棒の上に風見鶏を載せた尖塔があっても、それ自体は不思議なことではありません。
ただ、ここで重要なことは、“教会の風見鶏”は、“町の魔除け”でもあるということです。
ピエールの行為は、十字架を踏みつけることで教会の権威を冒涜すると同時に、この町を守る“魔除け”を排除してしまったことになるのです。
 
この解答に至ったとき、私は背筋が霊感めいて鳥肌立ちました。その瞬間、映画作品『シベールの日曜日』の、どこか不可解なところ、なんとなく奇妙だった部分が明快な意味を持ち、きれいに一つの線でつながったのですから。
そうか、そういうことだったのか!
 
●秘められた異教の暗号
ようやく、私にも見えてきました。
この作品の奥深い魅力の底流に隠れていた、もうひとつの本質が……
なぜ、作品の冒頭に東洋の仏塔が現われるのか。
なぜ、カルロスが作っているのは鳥篭なのか。シベールとピエールの世界は水の中なのか。
なぜ、二人が出会っているのは日曜日と、そして夜なのか。
なぜ、カーニバルの遊園地に、魔法のナイフなのか。
なぜ、クリスマスなのか。モミの木なのか。そしてイブの夜なのか。
なぜ、彼女の名前はシベールであらねばならないのか。
なぜ、風見鶏の翼が取れたのか。
そして、結局ピエールは、罰されたのか、赦されたのか。彼に訪れる悲劇の意味は……
これまでなんとなく不思議で、すっきり説明のつかなかったさまざまなことが、パズルのピースのように、じつに明瞭に、すっぱりと、隙間なくおさまったのです。
そして、それらを読み解いて一本の線でつないでいけば、はるかな過去から現代にいたる、気宇壮大なファンタジーの構図が悠然として立ち上がってくるのです。
 
そう、まるであの『ダ・ヴィンチ・コード』のように……
 
私も長年、そのことに気付かず、ただ単に、フランソワーズという偽りの名前を与えられた薄幸の少女が、シベールという自分の本名に、自分のアイディティティ(存在意義)のすべてをかけた、純粋であるがゆえに必死で、一途であるがゆえに危険な愛の形を、象徴的に描いた作品だったと思っていました。
これは、純愛の映画なのだと。
それはそれでひとつの解釈でしょう。
しかしそれとは別に、もうひとつの壮大な精神世界が透かし絵のように重ねられていたとすれば……
そう考えると、『シベールの日曜日』は、じつに意味が深く、幾重にも暗喩が彫り込まれた、やっかいな作品であることが見えてきます。そこには単なる純愛物とか文芸路線の範疇では解釈しきれない、宗教的で奇妙な暗号が随所にちりばめられていたのです。
気付いたときは、心底驚きました。
心の中で、腰を抜かしたというべきか。
なんて、すごい作品なのだ。このような作品が世に出たのは、もはや天の配剤。何かの奇蹟と言うべきではないのか……と。
 
『シベールの日曜日』が傑作であると感じられる理由として、見落としてはならない大切な要素……それは、少女シベールの妖しい魅力はもとより、美しい純愛の映画であるだけでなく、その背後にキリスト教と異教との長い葛藤と宥和の歴史がにじんでいることだったのです。
 
以下、具体的に作品を見ていきましょう。
 
●仏塔の謎
要点@:作品冒頭で仏塔が映ります。ここは異教の国であり、ピエールはキリスト教徒として異教徒の国に破壊と殺戮をもたらす侵略者です。それゆえ彼は異教の神に対する罪を背負い、記憶を失います。
 
インドシナ(ベトナム)の戦争で、軍用機を操って現地の村を銃撃、そこで少女を殺害したという罪の意識にとらわれ、墜落して記憶を失うピエール。その最初の画面、まさにこのお話が始まった瞬間に現われるのが、東洋の仏塔です。これは、この戦場がキリスト教世界ではなく、異教の地であることを明瞭に示しています。
ピエールは、異教の世界を蹂躙し殺戮したキリスト教徒であり、異教の人々に対する自責の念、あるいは異教の神々の天罰を受けるという宗教的な罪の意識によって心を病み、看護婦マドレーヌの助力を得て、ヴィル・ダブレーの街で療養生活を送ることになります。
ピエールが自ら招いた罰は、記憶喪失によってそれまでの人生を失うこと。自分自身を失った彼は、何一つ心のよりどころを持たない孤独な人間として、贖罪の意識に苦しみ続けます。
しかもピエールは、異教に対する罪人ですから、彼の罪をあがない、罪を許すことができるのは異教の神様であって、キリスト教の神様ではありません。
ピエールを愛するマドレーヌは、おそらく敬虔なキリスト教徒であり、ピエールを献身的に看護してきました。しかしキリスト社会の住人であるマドレーヌには、真にピエールを救うことはできないのです。
 
●シベールの謎
要点A:「シベール」の意味はギリシャ神話の大地母神キュベレーです。二千年前にキリスト教が発生してまもなく排斥され歴史に埋もれた異教の神であり、少女シベールはいわば異教の女神の巫女としての役割を果たします(精霊の声を聴く魔法のナイフなど)。
 
『シベールの日曜日』に隠された暗号を解くカギは、じつは単純です。
なぜ、フランソワーズはシベールなのか。
そうです。このお話が単なる純愛物語ならば、少女の名はシベールである必然性はなく、ペリーヌでもジャンヌでもマリアであってもよいのです。それでもストーリーは成立し、破綻しません。
なのに、なぜ、こんなにも変わった名前をつけているのか。
シベール自身が認める、変わった名前です。ならば、その名前に理由があるはずです。
彼女のお婆ちゃんの趣味だったとか、ちょっとしたエキゾチシズム……で片付けられるほど安易な理由で、ブールギニョン監督が「シベール」の名を選んだとは思えません。これには、当然そうあるべき深い理由があるのです。
なぜ、彼女の名前はシベールであらねばならないのか。
それはつまり……
 
フランソワーズはまさに、“シベール”だったからだ。
 
そういうことなのです。
「スナークはプージャムだった」はルイス・キャロルの言葉ですが、私はここで確信をもって書き残しておきたい。「フランソワーズはまさにシベールそのものだった」という方程式を、素直に作品に当てはめさえすれば、すべての疑問がするすると解決し、単なる純愛ストーリーの背景に隠されていたもうひとつのファンタジーが浮かび上がってくるのです。
 
では、“シベール”とは何か。
少女シベール自身が「ギリシャの古い神様の名前。木と土の女神」とピエールに説明したとおり、古代ギリシャの時代から庶民に信仰されていた大地母神キュベレー(映画公開当時の劇場パンフレットでは「シビュレ」)のことですね。大地の豊穣や死と再生にかかわる神様。綴りも同じ「CYBELE」ですから、間違いはないでしょう。これは、キリスト教が発生する二千年前よりもさらに一千年以上昔から人々の間に根付いていた自然崇拝の神々の一柱であり、一神教のキリスト教からみれば、妖精や魔法使いや魔女と同列の、異端宗教の一派ということになります。キリスト教の勢力伸長とともに排斥され、キュベレー神殿は破壊されて、その土地にはかわってキリスト教の教会が建設されたとも言われます。
 
その信仰を禁じられて、闇の世界に葬られた禁忌の女神。
その名がシベール。主人公の少女フランソワーズの、隠されていた真実の名前。
 
そしてこの名前がただの名前でなく、少女シベールの本質そのものであるとしたら……
すなわち、少女シベールが大地母神キュベレーの分身あるいは使者として、この世界につかわされた巫女であったとしたら……
 
そう仮定した瞬間、謎はたちどころにほぐれていきます。
 
●日曜日と夜の出会いの謎
要点B:少女シベールは孤独な異教徒の娘です。孤児院で自分の名前すら奪われ、偽名を名乗らねばなりません。しかし、異教に対する罪人であるピエールを救えるのは、キリスト教ではなく異教の神様からの許しであり、少女シベールはピエールの魂を救うことのできる唯一の“異教の巫女”となります。だから二人は運命的に愛と赦しを求め合い、与え合います。
 
少女シベールは、現代の巨大なキリスト教社会から排斥される運命を背負った、全く孤立無援の異教徒となります。キリスト教修道院の孤児院で生活することは、同年代の子供たちに囲まれながら、堪え難い孤独を抱えた一人ぼっちになることを意味しているのです。ですから彼女はピエールにすがります。「孤児院へ行くのはいや。ここに置いて!」と。孤独な異教の少女シベールにとって、心を開ける唯一の人物がピエールとなります。
 
記憶という自分自身を喪い、孤独にさいなまれながら異教への贖罪を願うピエール。そして名前という自分自身を奪われ、頼るべき家族を失ったシベール。異教の罪人と異教の巫女が出会ったとき、二人は運命の糸で結ばれます。巫女のシベールは罪人ピエールに救いをもたらすことのできるただ一人の異教徒として、罪人ピエールは巫女のシベールにとって、自分の存在を認めてくれるただ一人の信者として。
そして二人が孤独な魂の癒しを求めて逢瀬を重ねるのは日曜日。日曜とはキリスト教の神様が定めた安息日であって、神様の仕事が一休みする日ですね。キリスト教のパワーが安らぐときに、神様の目を忍ぶように、二人はひっそりとデートします。
そしてたまたま、日曜日に二人が逢えなかったとき、シベールはピエールを失う恐怖と絶望に襲われ、悲しみ錯乱します。そんなシベールを立ち直らせるため、ピエールは禁を破って、月曜日に孤児院のシベールを訪れます。このことがきっかけで、二人の秘密の逢瀬はキリスト教社会に知られていくことになります。
 
また、二人が最初に出会う場面と、最後に引き裂かれる場面が、いずれも夜間であることにも触れておきたいと思います。ヴィル・ダブレーの駅のホーム、終電も近い時間に、二人は出会います。泣きじゃくるシベールに、ピエールはガラス玉を差し出し、「ひとつおとり、お星さまのかけらだ。空から落ちてきたんだよ」とささやきます。
異教の巫女シベールとの、象徴的な出会いです。
なぜ、夜であり、そして星なのでしょうか。
 
二十世紀の半ば頃まで、キリスト教の宗教儀式は、降誕祭(クリスマス)と復活祭(春)の前夜を除いて、午後一時から夜明けの一時間前までは行われないことにされていたそうです。ということは、比較的最近まで、キリスト教の活動は、夜中は休止状態となっていたことになります。基本的に「光あふれる昼間の宗教」だといえるでしょう。町の魔除けとして教会の建物に設置されることがある風見鶏も、コケコッコーと夜明けを告げる雄鶏であるとされています。
つまり、キリスト教のスピリチュアルなパワーは明け方から昼間にかけて強く、夕方から夜中にかけて弱まり、暗闇に閉ざされる時間は、さまざまな悪霊や魑魅魍魎、異教の魔物たちが跋扈することを許してしまうのです。闇が支配する夜は、禁じられていた異教の神々が復活する時間と考えることもできるでしょう。その証拠に、夜空を彩る星座の数々をみれば、その大半がキリスト教以前の異教であるギリシャ神話に基づくキャラクターとなっていることに納得できます。大熊座と子熊座、オリオンにカシオペア……、また、太陽系の惑星やその衛星も、キリスト教以前の神話に由来する名称が主流となっています。かりに、この二千年の歴史の中で、キリスト教が全時間を支配する、いわば二十四時間営業を目指していたならば、無理矢理にでも、夜空の星座や星々の名前はキリスト教由来の神様や聖者にまつわるものに置き換えられていたでしょう。事実、中世の一時期にはそのような運動もあったようなのですが、立ち消えになってしまったといいます。なぜでしょうか。私の勝手な私見ですが、ひとつは、物理的に教会の聖職者に二十四時間勤務を強いるわけにはいかなかったであろうことと、もうひとつ、異教の信仰を完全絶滅させることは、布教を広げていく上で、庶民の反発があまりに大きかったであろうことが考えられます。他の宗教の絶滅を目的に戦うことは、反撃も先鋭化させ、もしも、他の宗教が勝てば逆に絶滅させられるリスクをはらみます。そこで、光あふれる昼間はキリスト教が支配するかわりに、闇に閉ざされる夜は、異教の存在に譲歩することで、既存の原始信仰との宥和をはかっていったのではないかと思うのです。じつに見事な棲み分け戦術であり、巧みな共存をはかったことは確かでしょう。二千年もの間、世界的な宗教として信仰を集め続けている所以(ゆえん)ではないかと思います。
 
ですから、異教の巫女としての少女シベールがヴィル・ダブレーの駅に登場し、贖罪を願うピエールに最初の対面を果たす時間は暗い夜であり、夜空から二人を見下ろすのは異教の神々の星座であり、その星々のかけらを、ピエールは巫女シベールに差し出したのです。
 
そしてもちろん、二人の最後の場面も、クリスマス・イブの夜の出来事となるわけです。
 
●鳥籠と、水の家の謎
キリスト教社会の町ヴィル・ダブレーでピエールが置かれている境遇は、恵まれています。マドレーヌに愛され、生活を支えてもらい、芸術家のカルロスや駅員も、よき理解者です。過去の災難を忘れてしまいさえすれば、そこは概して居心地のよい場所でしょう。しかしそれはピエールにとって、居心地のよい“鳥籠”であるらしいことが、カルロスの工房で鳥籠作りを手伝うピエールの姿から察せられます。このとき、『映画芸術』掲載のシナリオによると「葬列のとき打ち鳴らすシンバル」の音が聞こえます。とても居心地の良い場所でありながら、その心地よさに身をゆだねることは、異教への贖罪を放棄することになり、ピエールの心はいずれ死ぬのだと告げているかのようです。
かわって、異教の巫女シベールは、公園の池の水面に映った二人の姿を指して「ピエール、見て! 私たちの世界よ!」と喜びます。池の底に二人の家があるという意味ではなく、鏡のような水面に映った向こう側の世界が二人の家であるという意味でしょう。『鏡の国のアリス』のように、もう一つの異なる世界が、二人の安息の地になることを予言しているのかもしれません。この水面をかき乱す存在として、戦争を暗示する駆逐艦が登場しますが、それはリモコンの玩具であって、二人の鏡の世界の平和を乱すものではないことがわかります。
しかしこの世界に二人が棲むためには、解決しなくてはならない障害があります。
水を見続けると、ピエールは“めまい”に襲われるのです。それは彼の病気であり、異教に対して背負った罪の意識を現しているように見えるのです。
 
●女占い師と、魔法のナイフの謎
少女シベールが異教の巫女であるという事実は、シベール自身の口から語られています。真実の名前を伏せながらも、お祖母さんがギリシャ出身で、占いに使うクリスタルのボールを磨き、木の聖霊の声を聴くナイフを研いだことをピエールに告白するのです。
そして『映画芸術』のシナリオによる「村祭り」の遊園地で、ピエールは不思議なことに、魔法のナイフの実物を手に入れることになります。
これは、偶然でしょうか?
この日は日曜日、なのにピエールはマドレーヌとその友人たちにつきあって食事し、村祭りの遊園地を訪れています。初めてシベールと会う約束を破ってしまい、自責の念に引き裂かれる思いでいます。
さて、ピエールたちが訪れた遊園地はフェアとかカーニバルとか呼ばれる、移動式の遊園地です。さまざまな遊具やアトラクションとともに、ヨーロッパの国境を越えて町から村へと巡回する、いわば異郷からやってきた非日常の楽園でもあるといえます。そこでピエールは、妖しい女占い師に呼び止められます。「お若い方、大きな未来が顔に出ていますよ」と。
そしてピエールは、マドレーヌが止めるのもきかず、吸い寄せられるように、女占い師の小屋(当時の表現によると“ジプシー”の馬車?)へ自分の意志で入り、お告げを受けると同時に、魔法のナイフをこっそり手に入れるのです。これは偶然の出来事しょうか?
このとき、ピエールとシベールの二人とも、会うことができなかった辛さに、心が引き裂かれています。そこで、危機に陥った二人の絆を取り戻し、二人の心を救うために、異教の神様が女占い師をつかわして、ピエールに祭祀の道具を渡したと考えられないでしょうか。運命的な節理によってピエールは異教空間の遊園地へ導かれ、女占い師から意図的に指名され、魔法のナイフが与えられたのだと……
このナイフの使い方を知っているのは……少女シベール。
こうして、二人が手を取り合って異教の世界へ解脱することができる、決定的な手段がもたらされたのです。
 
●クリスマスとモミの木の謎
要点C:クリスマスはイエス・キリストの降誕を祝う祭りですが、キリスト教が発生する以前は冬至の太陽神の祀り(異教の祭祀)であり、異教を排斥もしくは換骨奪胎する過程で、キリスト教のお祭りにリフォームされてしまったとも言われます。そのイブは本来、異教の儀式が行われる妖かしの夜でもあったわけです。
 
今はキリスト教の降誕祭に模様替えされているものの、二千年以上の昔には自然崇拝の祭が行われていたクリスマス・イブ。キリスト教と異端の宗教が重なり交錯する神秘の夜に、ピエールとシベールは心の契りを交わすことになります。
クリスマスを飾るモミの木は、キリストの降誕と直接の関わりはなく、その昔の自然崇拝がこのような形で残ることができたと考えてよいかもしれません。ピエールはきらびやかなクリスマス・ツリーをカルロスの家から盗み出し、公園の林の中の小屋…あずまや…に運びます。このときツリーはあずまやの中にではなく、屋外の土の上に立てられます。ピエールはこのモミの木を屋内から解放して、自然の生命力に満ちた林の土の上に戻してやったことになります。
モミの木には、大地の底から異教の精霊が宿ったことでしょう。たぶん、このお話のラストの悲劇が訪れなければ、ピエールは魔法のナイフでモミの木を刺し、この特別な聖夜の、木と土の精霊の声を聴こうとしたのではないか。それはまた、異教の女神キュベレーを二十世紀に召喚し、そのパワーを復活させることになったかもしれません。
モミの木が祭壇となり、ここが二人の儀式の場になります。異教の女神キュベレーの巫女として、シベールはピエールの血を飲み、「これで一心同体ね」と告げます。そして聖なる酒(シャンパン)を酌み交わすと、自分の真の名前を書いた紙片を収めたマッチ箱をモミの木にくくりつけ、ピエールを促します。シベールの名を書いた紙片は、シベールの魂を写した聖体であり、モミの木という祭壇に供えて、ピエールに贈られるのです。
この一連の儀式は、異教の神がピエールの罪をすべて赦したことを物語っています。彼の血を飲み、彼に自分の名を差し上げることは、「私はあなたのすべてを受け入れ、すべてを捧げます」という意味なのですから。
ここで気になるのは、風見鶏の交換条件です。最初、シベールは「教会の風見鶏を取ってくれたら、本当の名前を教えてあげる」とピエールに宣言しています。風見鶏を取ってくるという条件で、ピエールの異教への罪を赦す……とも理解できるのですが、実際は、風見鶏の有無にかかわらず、シベールは本名を明かします。異教の神は巫女シベールを通じて、ピエールの心の無垢を知り、見返りを求めることなく、彼の罪をすべて赦してくれたのでしょう。キュベレーに代表される異教の神様は、じつは打算的な悪魔などではなく、慈しみ深い聖母でもあったのです。
 
幸せに震えるピエールは、交換条件に応じるのでなく、自らの意志で風見鶏を取るために教会の塔へ登ります。
 
●風見鶏と、神々の赦しの謎
要点D:ピエールは教会の尖塔の風見鶏を取って、異教の巫女シベールに捧げます。尖塔の風見鶏は「町の魔除け」でもあります。これを取り去ることは、キリスト教のパワーが弱まり、かわって異教の神々が力を得ることになります。このときピエールを苦しめていた「めまい」が治ります。ピエールは異教の巫女シベールとともにキリスト教の世界からキュベレーの異教の世界へと完全に帰依し、ついに心の傷が癒されたわけです。
要点E:キリスト教徒であるはずのピエールが異教へ帰依することは、キリスト教の神様を激怒させ、その結果、結末の悲劇という形で、彼はキリスト教の神に罰されたのではないか……との推測もできます。しかし思い返せば、彼が風見鶏を尖塔から外したとき、風見鶏は自ら翼を捨ててピエールの腕におさまっています。これは、キリスト教の神様も深い慈愛をもってピエールの行為を赦したことの現れと解釈できないでしょうか。天地をみそなわす神々はもともと対立などしておらず、互いを赦しあっていたのだと……。
こうして、ピエールの魂は真の救済に至ります。
 
ピエールはキリスト教徒です。なのに、シベールの導きによって異教の神キュベレーを受け入れ、身も心も異教に帰依しようとしています。教会の尖塔の頂にある十字架を足蹴にし、聖なる魔除けである風見鶏を奪うことは、キリスト教に対する冒涜行為であり、おだやかならぬ罪であることも事実でしょう。
そう考えると、物語の最後にピエールを襲う悲劇は、キリスト教に背信する者に下された、天の神様からの業罰である……かのように見えます。しかし……
キリスト教の神様は、本当に、かくも無慈悲な怒りをもってピエールに罰を下されたのでしょうか? そんな疑問が、ふと残るのです。というのは……
 
ピエールは尖塔の頂上で、異教の魔法のナイフを使って、町のお守りでもある風見鶏を十字架から取り外します。これは、古来よりキリスト教に圧迫され排斥されてきた異教からの、キリスト教への反撃であるかのようにも映りますが、しかし……
このとき、ピエールの意志とは別に、風見鶏の翼が外れて落ちます。風見鶏は空へ逃げるための翼を自ら放棄して、おとなしくピエールの腕の中におさまるのです。そしてピエールは、クリスマス・ミサの真最中である聖堂の中を、静かに通り過ぎてゆきます。
これは、どういうことなのでしょう。もしもこの作品がピエールへの神の天罰を予定していたならば、彼が教会を出るまでに、その予兆が示されていてもいいと思います。ピエールはこっそりとやっているつもりでも、神様はちゃんとご覧になっているよ、と。
ということは……
そうです。キリスト教の神様はピエールの所業をご覧になっていたのです。それも今に始まったことではなく、ピエールがキリスト教徒として異教の国を心ならずも蹂躙した、作品冒頭の時点からずっと、ピエールを見守ってこられた……というのが正しい見解でしょう。そのうえで、風見鶏は神の意志で翼を捨て、ピエールのものになったのです。
その意味は明確です。こう解釈すべきでしょう。キリスト教の神様も、ピエールの心の無垢を認め、風見鶏を盗むピエールの罪を免じ、彼が異教の女神に帰依することをお赦しになったのだと……
だから、そのときまでピエールを苦しめていた「めまい」が治るのです。キリスト教と異教の間で引き裂かれていたピエールの心は、双方の神様から赦されることによって、幸福のうちに人格的合一を果たすことができたのです。
ピエールの贖罪は成りました。
この聖なるイブの夜、天地のすべての神様は、この魂の巡礼者の無垢なる心を救うために、その罪をすべてお赦しになったのだ……そう、私は信じたいのです。
 
この作品の宗教的側面を、「キリスト教社会が、その秩序を乱す異教の邪神(シベール)を再び滅ぼして勝利する話であり、異なる宗教のせめぎあいが生んだ悲劇」と解釈して終わることもできなくはありません。
しかし、対立するからといって、互いに戦って滅ぼしあうことが、神様たちの本意でしょうか? 「汝の敵は殺せ」と教える神様は、本当におられるのでしょうか? この疑問はまさに、物語の冒頭で異教の少女に死を突きつけてしまったピエールの苦悩なのです。ブールギニョン監督はこの苦悩に何一つ回答することなく、作品を終えたのでしょうか。そんなはずはありません。ならば結論は明らかです。
「神様は互いに憎み合うことなどなさらない。神様は、互いに赦しあわれたのだ」と。
 
この物語の結末は悲劇です。しかしなんと美しく清らかな悲劇であることか。
ピエールは罰されて去ったのでなく、救われて去ったのです。
 
●消えた場面の謎
要点F:シベールとピエールが異教の世界で幸せになることを許さなかったのは、キリスト教の神様ではなく、神を正しく信仰していると思い込み、社会規範をふりかざす人間たちでした。神様はピエールを赦しても、マドレーヌが言う「理解できないことはみんな異常扱いする」人間たちが正義を唱えてピエールを罰したのです。モミの木を前にした二人の幸せな儀式は打ち砕かれて、異教の女神キュベレーは消え去ってしまいます。シベールが最後に「私に名前なんかない!」と絶叫するのは、そういう理由ではないかと思います。
 
結末に悲劇をもたらしたのは、神様ではなく人間でした。この社会は正しく、社会に従う自分こそ正しいのだと信じる人々の行いのあやまちが、悲劇の原因だったのです。物語の終幕を締めくくるシャルパンティエの『真夜中のミサ』曲は、神から人への、あわれみの御言葉(みことば)なのでしょう。「神と神の対立や憎み合いというものは、じつは最初から存在しないのであり、それらはすべて、人間たちの信仰の仕方の問題なのだ」と諭されているかのようです。これはまさに、この作品が観客の心に残してくれる、良心の啓示ともいうべきテーマではないかと思います。
 
さて、ネットのカスタマーレビューには、物語の結末近くで、「初期の劇場公開版には、ナイフを持ってシベールに近づくピエールのシルエットと、警官が発砲する音の場面があったが、後日カットされたのではないか?」といった疑問の声があります。
私はそれらのシーンを見た覚えがないのですが、当時の劇場パンフには「ピエールを射殺したのは、治安を守るべき警官である」といった表現もあり、リアルな射撃シーンがあったのかもしれません。しかし、こういった場面が後日削除されたのなら、それはむしろ、作品の意図に沿う結果になったと感じられます。警官の発砲シーンがあったならば、それを見た観客には、その警官の発砲が適切だったのか詮索する心理が働きます。この悲劇の原因を一警官の不祥事に矮小化することを防ぐ意味で、発砲シーンはなくてよかった……というのが私の個人粋な感想です。
ピエールに悲劇をもたらしたのは、登場人物の警官ではなく、観客である私たちの硬直した倫理観であるかもしれないのですから。
 
●浮かびあがる荘厳なファンタジー
要点G:異教の国を蹂躙したピエールは異教によって魂の救済を得て、いわば異教に殉教した形となりました。そしてこの殉教を、おそらくキリスト教の神様も愛と慈しみをもってお赦しになったのでしょう。だからピエールは罰されて去ったのでなく、救われて去ったのだ……という結末には、とても考えさせられます。
というのは現代においても、歴史的にキリスト教社会から排斥され恐れられてきた異教の産物が、ファンタジー作品となって脈々とよみがえり続けているからです。ディズニーランドの妖精や魔神たち。『ナルニア国物語』や『ハリー・ポッター』も。昔は邪宗として忌み嫌われた異文化の産物に、現代の私たちはなぜか憧れ、楽しみ、心救われている。……そのように読み解いていくと、『シベールの日曜日』はじつに神秘的です。そこには二千年前から現代に至る、人類の心の葛藤と、魂の救いのありかたに触れる、もうひとつの荘厳な物語が秘められているのかもしれません。
 
日曜日の、シベールという名の異教の巫女を描いた『シベールの日曜日』。
だからこのお話は、きっとファンタジーなのです。それも超一級の。
なぜならば、このお話には、キリスト教や異教の神様も、魔女も魔法使いも、悪魔も妖精もドラゴンも、いわゆるファンタジーの産物は一切姿を現していないからです。すべてが登場人物の心の中の存在であり、私たちの日常の現実から逸脱することなく物語が始まり、そして終わります。それなのにこの作品は、魔法や妖精や怪物が登場する作品のレベルをはるかに超えて、信仰と魂の救済に触れる根源的なファンタジーを謳いあげているのです。
画面に見えるのはあくまで現実、なのに少し視点のレベルを変えれば、深遠な精神世界が見まごうことなく浮かび上がってくる。それは、あらゆる時代を超えて私たちの心に響き、私たちの原初的な信仰のDNAを呼び覚まし、そして涙を誘います。
厳格であるはずのキリスト教徒が魔法的な異教の世界や不条理な情愛の世界にとらわれ、清らかな魂の相互犠牲によって救われ、昇天する……といった物語の図式は、『シベールの日曜日』に限らず、ワーグナーの楽劇『さまよえるオランダ人』『タンホイザー』『トリスタンとイゾルデ』などに通じるものがあり、二十世紀になって初めて生み出されたのではなさそうです。それだけに、時代を超えた普遍性が、この作品に備えられているのです。
 
これほど緻密に、そして情感豊かにこしらえられた映画作品は、他に類を見ないと思います。すべての映画史を通じて、『シベールの日曜日』はまさに最高傑作なのだと、断言してもよいのではないでしょうか。
 
●2012年、再びめぐる『シベールの日曜日』
さて、この作品中の物語の年代は、いつのことでしょうか。12月24日のクリスマス・イブが月曜日となっていますので、カレンダーを見れば特定は容易です。1962年がそれに該当し、作品公開のその年が、そのまま物語の設定年代ということになります。
それから半世紀、奇しくも公開後50周年となる2012年もまた、12月24日のクリスマス・イブが月曜日となります。
2012年に再びめぐり来たる『シベールの日曜日』。
イブの夜、半世紀前のクリスマスとシベールが過ごした日曜日に、思いを馳せてみるのも一興ではないでしょうか……。
 
 


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